収集と発信の間で思うこと
どうも、ガツンと荷造りしておかないまずい日当日がやってまいりました。全然詰めきれておらず死んでおります。(3〜4こしかできてない)逃避行の散文お付き合いください。これタラタラ書くの適当すぎていつもそんな時間かけてないんですが、こういう数分が命取り。分かっている。
なんかたまたま思ったことあったので情報とかコンテンツの収集癖と発信癖についてメモしておこうかと。
自己紹介以降からも分かる通り私は俗に言うオタクなのですが、浅さや深さからいくとそこまでオタクか?と疑問呈される可能性ありみたいなオタクです。グッズ集め、声優の追っかけ、課金、あんまりしていない。こんな事晒したら刺されるかもしれないけどその時の感性に任せてアニメ観るとか漫画読むとか、動画漁るのが好きなだけなんですよね。美しい顔やイラスト、かっこいいダンス、演技、常人じゃなかなか歌えない歌、諸々。とにかくプロ意識?ハイセンス感じるまでに徹底された何かがすごい好きでそこは漁るみたいな。交友関係でもそういったところから確かに興味持って少しは人脈できたのかな〜とか思う。
そして発信癖。やってみたい衝動にすごく駆られてもしそれ現実出来そうな事なら手出してみるしそれを表に出す癖がある。できなかったことは勿論全然あるけども。昔々は承認欲求的なものが原動力としてあったんだろうな。あとは周りにハイセンス人が居たから、そこに憧れもあったんだと思う。もはやこのnoteも発信癖のひとつよな。
よく自撮りやTikTokとかは自分にすごい自信があってすごく承認欲求強いからやるんだとか言われるじゃないですか?全部が全部そうとは思わないんだよ私。むしろその感性はマジなのかと思う時ある。色んな人とも連んできて、自信がある人って自分しか見えない画面に向かってだけじゃなくてどんな時外で人にカメラ向けられても良い笑顔するし自分だけの世界に閉じこもったりあんましないんじゃないかなって思うんですがどうかな、、いや賛否両論あるかこれは。自信はないが自分の世界だけでも何とか美しく見えたい、今日も大丈夫って納得しようとする独特な気持ちすごい分かるからなんだけどね、こう思うの。確かに過去は何かセンスがあると思われたくて、そういう人たちにも憧れて、何かしら評価されたくてって気持ちがあったんだけど、色々通して結局は遊びまくった人達が数年経ってもういっかって落ち着いて結婚するみたいな感覚に似て、何か瞬間的に満たされるものに飽き?疲れ?違和感みたいなの感じ初めて発信の仕方って変わってきた。笑いでも何でもセンスあるものを作って表に出したい欲求はあっても、作ったからには自分でストックしておくだけじゃなんだか勿体無くてアウトプットしておこというか、、他人からはくそしょーもなくても。すごい難しいんですがそこに人からの賞賛がめちゃくちゃ欲しいとか見て見て!!とかあんまりもう無い、。伸びないとかの僻みだろとか負け惜しみだろとかこういう発言したら燃えるのも理解済みで。こういうの自己満と言うよね。でももうそんな感じかもしれないや。よく陰では馬鹿にされてんだろうなとか思うけど、勝手な思考で何言われててももういいかな〜それがその人の価値観で、痛くてもこういうのが私の価値観。落ちるとこまでは落ちた、人の知らないところで。だからこういった変化私にとっては這い上がり中なんだけど、、伝わんないよなと思う。
先述にあるそういうハイセンスなクリエイターとの人脈も、多分今残ってるような人達はその先に人間性を分かち合いたいと思えて、尚且つただ尊敬してるから一緒にいるだけで利害とかフォロワー数とかそういうのももう割とどうでもいいんだよな。近日発信してる事の大半はリハビリの意味合いが強いけど基本根底にあるのは大体こんなところ。ただ感性の赴くまんまに収集も発信もしてたりする。こういう同志って居るのかな?
この前の執着とか依存、意識についての考えを繋げるとしたらほんとにそういう自分が削れていくもの、一瞬だけ喜ばせてくれるもの、あんまり興味が薄れてるんだと思うな〜興醒めもある、分かんないけど。昨日紹介した曲みたいにちょっと雑音的なものはシャットアウトしつつ、創作意欲あるうちはどこまでもとは言わないけど好きなもの集めてアウトプットして、穏やかに生きたいなと思った昨今です。穏やかにだぞ。
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