どうやっても消えない悲しみに

大人になると、なんて十把人絡げに言いがちだけれど、何歳から大人になるのかは人それぞれに違う。置かれている環境によってのストレス耐性値のことなのか、痛みを自分のことでないように避けてしまえる術なのか、正解はおそらくない。

感情がわかりやすく喜怒哀楽にわかれるとして、それを表出させないことだけが大人であるだなんて私は思わないし、悲しい時にきっちりと、悲しみを受け止めることで前に進むことができるなら、その時期は必要な停滞なのだ。

ただ悲しみに浸るだけで、そこに留まることが年齢を重ねると、なかなか許されなくなる。それは対外的な要因が絡むし、呪縛のようなルールがそれを強制するからだ。

けれど、個人としての痛みは共有されることはない。同じ事柄で、似たような感情を抱いても、それをシェアすることはできないし、できているつもりでも本質的な違いは違いとして存在する。

その違いを組み合わせて、噛み合わせでしか解けない自分の感情の扉はある。同じ痛みでは解けない己の扉。だから、人は他者を求めるし、同時に扉の奥にあるものを恐るから1人を選びたくなる時もある。


なにをどうやっても、悲しみが消えない時間というものは存在していて、無理にそれを矯正しようとすると、形が歪んでしまったり、傷や軋みに気が付けなくなってしまうことも珍しくはない。

だから、悲しい時には1人でいても、誰かと傷を見せ合うとしても、いずれにしても、悲しみから無理に距離をとってはならないのだと私は思う。

それがゆるやかに解けていくのか、エリアを抜けたように消えてしまうのか、統一された答えがあるわけではないし、処方箋が用意してもらえるものではない。

悲しみを知って、その温度に足を慣らせて、はじめて泳ぎ出せるのだと思う。抱えきれず沈みそうな時には、なにかにしがみつけばいいし、それは逃げではない。

悲しまないことが大人なのではないと、少なくとも私は思うのだ。

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