サブスク時代のdigについてモグラは語る
ジャズやクラシック、あるいはヒップホップなどのアナログ蒐集者の語るうんちくうんちくんが苦手。それは知識量のマウント合戦やレア物を発掘したものが偉いという権威主義的なものを感じるから。
権威主義や様式美の全てが悪いわけでは無いし、蒐集者のみが成し得る偉大な編纂の結果と言うものもあるのだけれど、こと音楽に関して言うと、しのごのいうまえに今あんたの耳に届いている音楽は理屈の前にあんたの心にはどう響いているんだい。オイッ、どう響いているんだいっ!(ハッ)と中山きんにくんばりのアルカイックスマイルで問いただしたくなる。
自分の場合は音楽を教養できいたことはほぼない。音楽の時間にビートルズのオヴラディオブラダを流された時も、この陽気なおっちゃんがたの楽しそうな歌はなんなんやとわくわくしたし、チャイコフスキーの白鳥の湖は、なんでこんなにこれを聴いていると悲しくなるんだろうと思いながら、何度も何度も繰り返し聴いた。
意固地な人間であるから、発掘や採掘、あるいは盗掘の類は自分の心が動かないとやる気にならず、よーしお父さんレア本集めちゃうぞーリスペクト受けたいんやというモチベーションではガチめのED親父のように心がピクリとも動かない。
逆を言えば、自分が興味を持ったことに関しては、好奇心猫を殺すと脅されても突き進んでしまう。エレクトリックマイルスから、各パーソネルのソロやらセッションを追い求めた時には庶民の味方だったTSUTAYAのレンタルでも諭吉があっさり私の元から去っていったものである。
ロックンロールの成り立ちなり、ポップスの歴史みたいなものは、それこそ学術的なり、系統的にまとめてくれた先人がいたからこそ、あちこちに巣穴を増やしていけたので、冒頭に述べた蒐集者へのディスは恩知らずであり、ある意味での親殺しのようなものでもあるが、あくまでもそれは添加剤であり、火をつける種火は己れ発でしかない。
真偽の審議を厳密にする必要はあるが、今はYouTubeや各種サブスクで過去の音源やライブ映像。ゆっくり動画などでのおおまかなヒストリー解説や、wikipediaなどの集合知による辞書的なテキストと、自分が知らない音楽やフェスのなりたち含めて、発掘するためのハッパやピッケルなどの道具は揃いやすい状況にあると思う。
それでも、文字のみではあのライブハウスの熱気や混沌を十全には感じることは不可能だし、アルバムジャケットやアナログレコードについた香りや傷跡から感じる思いのようなものは、実際に手に取らなければわからない。
音楽はリンクするもので、誰かの聴いてきた音楽のルーツを辿っていくと、際限はあるとしてもその深度はとてつもなく広がっている。私はそのほんの一部にしか触れることはできないし、時間に限りがある命でどこまでそれが叶うのかもわからない。
だからこそ、穴を掘り広げるモグラは思う。穴で見つけた宝の品評会なんざに終始するくらいなら、すれ違うモグラ同士で旅の話を焚き火を囲む夜に酒を飲み交わしながら笑ってする方が楽しく無いかねと。
音楽は教養。そう言うジャンルや思想があっても良い。好きにすりゃ良いし、音楽はクスリで薬で栄養で酸素でアートでエンターテイメントでと考えるまとまりのない太ったモグラは疎ましかろうとも自覚している。
ただ、せっかくならご本尊にしたり、研究書やら聖書に祭り上げるよりは、まずは聴こう観よう、そして踊ろうぜとデブモグラは思うのだ。頭も体型も理屈で弾けそうだろ?ポケモンじゃないんだぜ?とか思う訳だ。
せっかく穴を掘るなら、バグに出くわしても怯えずにディグったらいい。難しい顔してばかりいないで、楽しもうぜと、またひとりモグラは穴を掘る。