雨降る夏のあらゆるカラフル
加減を間違えた神様が、炎天の次に続けるのは雨の日で、便宜上神様と呼ぶが、自然に対しては、これだけ科学が発達しても完全にそれを御することなどできぬのだと思う。
ブラックジャックの一応の最終回とされている話で(諸説あります)恩師である本間医師の執刀をした彼が、命を救えずに落ち込み座る横で、本間医師の霊体らしきものが隣に寄り添いながら「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね」と言っているシーンに似ている気がする。
イエス・キリストが生まれてから2千年以上の時間が経過しても、自然はいまだに脅威であり、同時に人々に恵みを与える存在である。なにやらDV的な感じがしなくもないが、そうやってただ現象であるものに幻想を押し付け神やらなんやら言い出すのが人間の愛しさと愚かさと心もとなさか。あるいは人間のサガか。
擬人化、あるいは擬態化させたついでに書くならば、紫陽花の頃が終わりつつある現在、夏の雨に隠されるように咲く花々の色彩は神のアート。
グランドキャニオンやらイグレシアスの滝のように、わかりやすくあからさまでないものにも、自然の美しさは溢れているし、亜熱帯の昆虫や鳥たちが身にまとう鮮やかな色々もまた芸術作品。
繰り返すが、そんなものは人間が作り出した価値観でしかない。品種改良で体を肥大化させられた魚に関してはグロテスクであると思うし、そう感じる感覚も含めて人間にしかないものなら、そんなものは思考のマトリョーシカだ。諦めろ。
春にせよ、秋にせよ、ふゆにせよ、それぞれに映える季節の美しさはあるのだが、どうも夏は太陽の光であるとか、稲妻と発光する場面にばかり注目が集まりやすい。向日葵は好きな花だが、しょげているように顔を背けている、くたびれたひまわりの陰はとても味わい深いというのに。
遠い夏の雨、ねっとりした湿度と西瓜の草のような匂い。風鈴と焦げた花火の残骸、ねじれた体液まみれのコンドームといじけたティッシュ、灰色に隠された夏空だとか、夏にも多くの色彩は存在する。海と砂浜だけでない、近くの川の草だとかも構成要素。
ああ、こういうことを書いているとあらためて思い知らされる。夏なんだな。夏が来たんだな。
はっぴいえんどから、never young beachに、それからサニーディサービスのスロウライダーを聴く。夏の夜の憂鬱も、うすぼやけた灯りもまた色彩。くぐもった灰色。好き。