盆の終わりと覆水の巻き戻し
お盆も最終日。輪廻転生や死後の世界が本当に存在するのかどうか私はわからないけれど、亡くなった人にもう1度なんらかの形で再開できるという概念は救いであると思う。
映画や小説のテーマでも、死者と再会する話は存在するし、オルフェウスやイザナギが妻に会うために異界に赴く話なんかはそのプロトタイプだったのかもしれない。
いつも夫が妻を亡くして会いにいく話が多いような気がするけれど、あれは男の方が妻を先に亡くした場合は自分も夜を儚んで命を縮めることのメタファーなんだろうか?夫を亡くしても妻はそれなりに日々を楽しめるから、男の弱さを描こうみたいなものか。
七夕の織姫と彦星も会えるのは年に一度であり、盆の場合もまた一度。なんらかの制限や条件をつけなければ、死後の世界と現世は繋がらないということかもしれない。いつでも会えたらありがたみがないしね。
それなりに自分の年齢が上になってくると、見送る人も増えてくるわけで、私も祖父母や母、友人を見送ってきた。そのときはとてもつらかったし、中にはまだこの世界のどこかで元気でいるのではないかと思ってしまう人もいるのだが、現実には現世ではもう会えない。
輪廻転生の場合、必ずしも次の命も人間に生まれる保証なんてないわけで、愛し合った恋人たちが犬と猫、あるいはキツツキと樹木に生まれることもあるだろう。前世でのカルマをどう消化したら、そんな悪戯のような展開になるのか気になるところだ。
いずれにしても、転生があろうとなかろうと、いま自分は自分として生きているわけで、前世が蚊であろうと独裁者であろうと、それで何が変わるわけでもないし、死んだ後のことは死んでから考えたらいいかなと考えている。
亡くなった人に会えるなら、なにを犠牲にしても会いたいと思えるような人に出会えたなら、このお盆の期間に対しての思い入れも深まるのだろう。それは長らく合っていない旧友や、別れてしまった大事な人との再開を願う気持ちに似ているのかもしれない。
過ぎ去った時間は戻らないし、覆水は盆に帰らないけれど、こぼれたミルクに泣かないで、今を生きる過程の糧にしていこうと思う。
実家に帰り、線香をあげ、お墓掃除とお墓参りもできたし、台風の最中では合ったがそれなりのドライブもできたので悪くないお盆だった。
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