花火なき夏の終わりに

梅雨明けを告げるニュースは、なんとなくわかっていたよと苦い笑みで迎えた昨日、いよいよ今年も夏を迎えることになるのだが、先週あたりから悪夢のような暑さは始まっており、来るべきものが来たなという気持ちでいる。

昨夏までは、まだコロナという災厄があり、元首相が射殺されるという凶事があったので、夏を迎える気持ちが整わなかった。多少なりとも気分の昂揚する季節のはずなのに。

最近では、ようやくマスクを外して歩いている人も増えてきたが、それでもいまだにコロナが消えてしまったわけではなく、ライブがアーティストの感染で延期や中止になってしまうことがちらほらある。

けれど、ここ数年のように騒ぐことは無くなった。クラスターが起きても、感染者が増えても、さらりとニュースに紛れ込ませるだけで済ませているのは何故なんだろうね。誰かの指示なのか、緊張することに疲れたのか。たぶん、どちらもあるんだろうな。

今年から私の生息地域でも、夏祭りや地区の催し物が再開され、花火大会も開催されるようだ。日常の中の非日常がまた戻ってくるというわけだ。

混み合った場所に行くのは好きではないが、車を走らせながらだったり、ベランダから、ぼんやりと花火を眺めるのは嫌いではない。好きではないことと、嫌いではないことの中間くらいが一番心地よいのだ。好きなことは好きなことで夢中になりすぎるから知らないうちに疲弊しがち。あとでドッと疲れる。祭りの後遺症みたいなものだ。

祭りも広い意味では宗教的な行事であり、日常と非日常が繋がる日だったりするから、神隠しが起きたり、それのコピーキャットであろう人攫いが昔からあったし、いまでも起きやすい。

それだけ祭りの磁場というのは異様なものがあるのだと私は思う。

今年から再開される祭りや集まりに行くときには、花火が鳴っている時に、見えざるものを見てしまわぬように花火だけを観ていた方がいい。久方ぶりのまつりであるからこそ、常ならぬものが顔を出してしまうかもしれないから。

花火は合図であり、祭りは異界と現世が混ざり合う場所であるのだ。人間の都合で、あるべきじきに行われなかったものが再開するなら、見えざるものも張り切るであろう。

夏の陽気にあてられているうちに、妖気を感じる間も無く、まやかしに魅入られぬように、花火が空に放たれている時には、その花火を楽しむといい。

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