クラゲが見る月
ショッキングな話題を流した後に、ショックを受けた方はこちらにお電話とアリバイ的に番号を数秒映してすぐに消すメディアのやり口にうんざりしている。少し昔に続きはWebでと己の宣伝力に見切りをつけたCMが流れていたが、テレビの首の締まり方も、そろそろ呼吸困難が近いのかもしれないね。
サッカー中継以外でテレビはほとんど見なくなってしまった。だから、ニュースを見ようと、たまたまつけた場面での判断ではあるが、ショッキングな映像が流れますと銘打った後で、それより残酷な反抗の手口のインフォメーションや、模倣犯のための犯罪の解説みたいなものが垂れ流されていることに疑問を持たずに見ていられる人の多さに驚くのだろう。日々流れていたら、麻痺するだろうし。
欧州の一部の国では尊厳死が認められていて、自分で生涯を閉じることが条件付きではあるけれど権利として確立している。ただ内情も知らずに、義務として、あるいは道徳として生きるべきだと自裁を非難するばかりの我が国と比べたら羨ましいなと思った。
年間数万人が自裁し、不審死や自裁の定義に当てはまらない死を含めればそれ以上の人が生きることを自ら止めてしまう国で、社会保障のコストや効率を念頭に金額が弾き出され対策もおざなりなこの国では、生きるコストや稼ぎ出される賃金の価値が命の価値のように考えられりる一方で、命の尊さはアナウンスされ続けているの、正直な話、かなりグロテスクだと思うよ実際。
読みたい本があったり、聴きたい音楽があるうちは、どうにかやりすごして生きていたいと私は思うけれど、それは当人が重い判断すべきであって、重い病気やら悩みやら痛みに対して、他人がそれでも生きているべきだなんて口出しすることはできるんだろうか?そんな権利を有しているのは家族だったりパートナーの一部だけじゃなかろうか。
家族であればみな、子供にそれを言っていいわけではない。恋人であれば許されるわけでもない、本人が心を許して、その相手もまた大切に思い合っている人がギリギリ許される可能性のカケラくらいを手にするんじゃないだろうか。
否定的に生きるべきだとかじゃなく、君がいてほしいという身勝手で頼りない嘆願みたいなものを小さな声で、その人に届くギリギリの場所から。
ゆらゆらと、我々は命の海を漂うクラゲのような不安定で不規則な波間を漂っている。明日のことはわからないのに、先々が不安になって今日に沈んでしまいたくなることもある。
月が照らす水面から、反射する光に目を鳴らし、それが消えていくまで、ぼんやりと視線を変えていく。そして月を眺めて時間が過ぎていくなら、なんとなくでも、意味はなくても生きていけるのかな。