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本日の正義とパブロフの時間

ニュースで一方的に誰かを糾弾している際には、それが沈静化したら飽きるくせにと呆れながら眺めてしまう。松本サリンの被害者の方を容疑者のように報道して、実際にそれが違ったのに大々的に謝罪をしなかったメディアの態度を目の当たりにしてから、ずっとそれは変わっていない。

メディアが世論を作るなんて許されることではないと思っている。ハーメルンの笛吹きよろしく、それに踊らされてしまうのが怖いし、誰かの言っていることをマルっと素直に信じてしまえるのが怖い。

寛容さと猜疑心の強さが乗り物を運転する際に、必ず必要になる要素だと思うが(車に関しては総じて状況判断なのだろうが)善意や寛容さは相手から与えられるもので、こちらから要求するものではないような気がしている。

不寛容さがメディアを支配しつつあり、それは野次馬根性や怖いもの見たさであったワイドショー的なものから、より潔癖で醜悪な何かに変わろうとしている、いや変異して転移してしまっているのかもしれない。

古代ローマのコロッセオでの殺し合いのように、その日その日で正義の名の下に、叩いていいようなわかりやすい悪を養殖して提供しているような感じさえある。さすがにSF小説でもあるまいし、そんなことはなかろうが、情報操作と解禁のタイミングを図っている誰かは存在しているように感じる。

性善説も性悪説もなく、人間は多面体でありジキルとハイドの中間地点でぶれたり、揺れながらバランスを取ろうとしているのだと思うが、片方の感情を悪戯に刺激するようなエサをメディアはばら撒いているのではないか。

自分の感情さえ、誰かにコントロールされているのだとしたら、それは本当に生きている意味を捨てているようなものだ。できることなら、そういったものは遮断したいが、簡単じゃないんだよな。

感情なんて、不確かなものだから、その場面、その角度だけで波を決めてしまわないようにしたいものだ。

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