16年後のひかりのような
16度目の3/1。syrup16gの解散から、16年の歳月が流れた。時間は流れて僕らは歳をとりというが、16年という歳月が実際に私を現在に運んでくれたというわけだ。
だるい数分があれば、冗談のように溶けるようにすぎる時間があって、その積み重ねとして16年という時間が過ぎた。思春期に夢中で聴いていた偉大なバンドマンたちが空に還り、酔いどれ作家もどこかに消えてしまった。時間は善も悪もなく、ただただ過ぎていく。
何か、自分の中で変わったことがあるかといえば、幾度か心身ともに壊れたくらいで、それだって流れた時間の中で言えば、ほんのわずかな時間に過ぎない。
母が亡くなってからの時間は、あまりにも自分にとっては空疎で、生きているのか居ないのか定かではない時期もあったが、それから、しばらくしてsyrup16gに出会って、そのバンドも解散してしまった。人生は思い通りにならないが、それにしてもと苦い顔になった。
死にたくも生きたくもなく、淡々と日々を送り、悪意や作為にぶち当たり、何度か恋愛みたいなものもしながら過ごして居たら、バンドがまた動き出して、嘘みたいだなと思って居たら、10年が経過して居た。
そして、解散のあの日から16年目の本日。私の一部は壊れたままかもしれないが、また彼らの音楽を待つ日々を送っている。いつまでこの人生が続いていくのか、ちっともわからないけれど、ともあれ4月には彼らの音を聴きに東京に行く。
どうなるにしろ、最後の日まで命は続くなら、あの日の光を忘れないように生きていきたい。ただのそれだけで、案外と人は呼吸を続けて居られる。
syrup16gの解散した日から16年。長いようで、あっという間の時間が過ぎた。流れた時間の1粒ごとに、きっと想いは宿るのだろうが、流れ流された今では、ただ懐かしく愛おしい。
また新しい日々を積み上げる。ゆっくり、ゆっくり、1粒の砂は流れていき、流れていくのだから。