世慣れたストーリーとヨナルデパズトーリ
ナックルボールみたいに、どこに落ちるか、動くかわからないものが運命であるなら、それを予想することに意味はあるのだろうか。豪速球でストライクを取るピッチャーもいれば、緩急とコントロールで勝負する人もいて、それぞれの武器でそれぞれの闘いを人は繰り広げていく。
自分は何も与えられず、何も持っていないなという安い劣等感ってのを植え付けられても、それを引っこ抜いてそこに種を植えるのかを決めるのは自分なのだ。日当たりだとか、誰かの助けによってそれが咲いたり、逆に枯れたりことはあるのだろうけれど、種をまかなければそこには何も咲かない。
あるいは自分のようなひねくれ者は、そこに鳥がフンを落とし、それに含まれていた植物の種が芽を出すかもしれないと理屈をこねるかもしれない。確かにその可能性は0ではない。けれど、待ちぼうけの歌詞にもあるように、偶然を待ち続けるだけでは得るものは少ない。
願えば叶うってのは、必ず叶うってのは大嘘だ。天分を伸ばすための努力をして得られるものはあるとしても、誰でも全て同じように高みに辿り着けるわけではない。それがスポーツであれ、勉学であれ。
ただ、願って動かなければ、それを手にすることができない可能性は高いというのは本当だと思う。とわかっていても、希望ってのは常習性のある薬のようなものだから、人は自分に都合良い奇跡を欲しがるんだよね。まあ自分の場合は確実にそうだってことなんですけど。
ヨナルデパズトーリとはアニメ悪魔くんに出てきたメキシコの妖怪であるが、彼は嫌な音を出してそれを聞いたものを病気にさせたり、見つけたものの魂を抜いたりするとされている。日本で言うと、安眠している夢を悪くさせる枕返しのようなものか。
世慣れてもいい頃を過ぎても、いまだに目標だとか夢を求める自分は、あるいは醜悪なのかもしれない。でもまあ、鬼瓦がその凶悪な顔つき故に魔除けになるように、自分のこの姿も、考え方も誰かにとっての魔除けになることだってあると思う。
先の見えない時代というけれど、アカシックレコードでも読めない限りは、ほとんどの人は先なんて読めないし、ナックルボールの変化ってのは投げたピッチャー本人にすら読めないのだから、それを恐れたり、怖がるより、わくわくできればなと思う。
そしていい加減、親父ギャグ寸前の、マニアックなネタはどうかと自分でも思う。
エロイムエッサイム・エロイムエッサイムって、エロって入っていてどうかと思う。
そう考える自分がどうかしてるってのはわかるんだけどさ。
つまりはこういうことさ
ヨナルデパズトーリ-はこういう奴さ