君がしたいことすればいい
休日にSNSを眺めると、誰かしらの死にたいという言葉を目にする。病みメッセージというけれど、闇メッセージでもあるのかもしれない。
それは、自殺が増えたら困る誰かが押し付けたものなのかもしれないなと考えることがある。病や病理をネガティヴなものと定義し、死への思考をそれらと並列で扱うのはその意図を強く感じる。
死にたがりというけど、健康に気をつけて運動や食事を考えて摂取する人を生きたがりと呼ばないのは何故か。放っておいても死ぬのに、わざわざそれを望むからネガティヴに扱うのだろうか。
理性と本能がこんがらがり、思考を生み出した人間が己の末期を望んだり想うことは、そんなにイリーガルなことやイレギュラーだと感じないのだが【普通】とやらは、生きることを賛否でなく賛美したがるのだろう。
私は、死を願う人に対して、(おまえが死にたがる今日は生きたかった誰かが得られなかった明日だ)みたいに呪いのように吐き捨てる善良なふりをした人間を嫌悪する。
お前の頭の中でそう考えるのは自由だが、死にたいと思う人間を懲らしめようとでもするその言説の残酷さを本人に押し付ける愚かさに気付けボケがと苛立ちを抑え切れない。
悪意ならまだわかる。わからないのは善意が裏返ってしまう狂気に気がつかない鈍感さが理解らないのだ。無論、他人のことなどわからないし、自分自身すらわからないくせに他人を解ろうなどというのが烏滸がましいのだが。
死にたいという人には、死ねたらいいのにねと思う。生きるのがしんどいのに、なんらかのしがらみで、あるいは配慮で生きなければならないのは苦痛であろう。
守るべき存在が力になるなら、そんな美しい話はないが、枷になるならその力は不可な負荷になってしまうと感じるから。繋ぎ止める杭が悔いに変わり果てては本人も周囲も不幸ではないのか。
一方で、死を願う言葉の羅列が、逆説で生きたいという意志であったり、しんどさを周囲に伝えて助けられたいというSOSであるのならば、それを構ってちゃんだとか、病みと揶揄される文化や空気はよろしくなく、人に他人の生きられなかった時間を生きているのだから前向きに生きるべきみたいな言葉をぶつけるより、そういう人はセーフティネットの構築に動いたほうが結果として望む世界になるんじゃないかと思う。
私の友人や知人の中にも、自ら世界から去ってしまった人もいる。病で望まずに去った人もいる。それぞれがそれぞれの形で命の旅を終えた。そこに優劣などないし、つけさせてたまるかという気持ちがある。
自らのタイミングで別れを告げた人には、さびしいけれど、もう苦しまないんだなと、良かったとは思えないにしても安らかにと願いつつ、もっと言葉を交わしたかったと身勝手に感じてしまうのだ。両方とも本音で、真逆に見えるだろうが併立している。
なも知らぬ苦しいと痛む魂を悼むなら、せめてその旅立ちが解放であればと願うだけだ。苦しいという言葉に何もできずとも、願いが叶ったその後にまで押しつけられる痛みがないことを願う。