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それは、時代のせい
先日、岐阜の老人ホームにいる祖母に会いに行ってきました。
コロナ直前に怪我をしたのを機に施設に入り、以来、以前のようには会えなくなり、祖母も衰えが進みました。
コロナ対策により一時は面会ができずハガキを送るだけ、その後、zoomや窓越しに面会して話したりもできていましたが、
世の中が平常に戻り、直接手を触れることができるようになる頃には、話すことが難しくなっており、今は、もう眠り続けています。
こうなる前は、年に2〜3回は遊びに行っていましたので、祖母に関する話は沢山あります。
まだホームに入る前、私たちが泊まりに行くと、親戚の車に乗せてもらって、スーパーに一緒に買い物に行くことがよくありました。
その時、祖母は、食べきれないよね?という量をカゴに入れていきます。
また、保存食的なものも、まだ家にあるよね?というものでもカゴに入れていきます。
家には、いつか使い切る日は来るのだろうか?と思うほど、何本ものサランラップがあり、トイレットペーパーも、タオルも、まあいったい何ヶ月分だろうという量です。
まだ私も人の気持ちに寄り添うなんていう考えがない頃は、
「おばあちゃん、そんなに買わなくても大丈夫だよ。」
「こういうのは、また必要になった時に買えばいいよ。」
「無駄になったら、もったいないよ」
と口を出したりしていました。
祖母の昔の話を聞いていた時だったでしょうか。
ある時、ふと思いました。
そうか。
おばあちゃんが生きてきた時代は、今みたいにモノが溢れてないんだ。
なんでも備えておくことが必要な時代だったんだ。
欲しいものがいつでも手に入る時代じゃなかったんだ。
車に乗せてもらうことも、相手に多大な負担をかけるものだっていう世の中の通念だったかもしれない。
もしかしたら、沢山買うことは、一つの豊かさを経験することでもあったかもしれない、とも思いました。
昭和一桁生まれの祖母は、終戦の頃、思春期です。
そんな頃にいろんなものを我慢してきていたとしたら、今、スーパーでの買い物で我慢する必要がどこにあるだろう?
それから、祖母の買い物に口を出すことはやめました。
日本の社会全体でも同じことなのだろうなと思います。
無計画に建設されたごちゃごちゃの建物。
欧米に追いつけ追い越せの中で、失われたもの。
過剰な包装。
私自身、どれも残念に思ってしまいます。
でも、焼け野原に自分が立ち尽くしたら?
幕末に、西洋の豊かさを目の当たりにしたら?
貧しい日々の中の特別な日に、素敵な包み紙の贈り物をもらったら?
後からの人間は何とでも言える。
でも、その時代に生きていた人たちも、一生懸命生きていた。
その時代に生きていなければわからない感覚があり、その場を経験したから起きる思考や感情があると思います。
ヒトゴトでなく、今の私たちも、未来の人間から見たら、不可思議に、はたまた滑稽に、見えるんじゃないかと思います。
だから、過去を悔いたり、責めたりしても、詮ない感じがしまして。
結局、私たちにできるのは、
じゃあ、それで、今、何が起きてるの?
だから、今、この時代をどう生きるの?
どう創ってくの?
ということしかなく。
悔いたり、責めたりしても仕方ない代わりに、その古い時代を盲目的に繰り返すことも縛られることも必要もない。
生きる時代も環境ももう違うのだから。
ちょっと大きく広げてしまいましたが、ミクロレベルは、私たちが毎日をどう生きるか、という話。
そんなことを考えるのに、このnoteも何かの役に立っていたらいいなと思ったり。
今はこんな風に感じているよという気持ちが、祖母に届いたらいいなと思ったり。
では、今日も良い1日を!
◆今日のカバー写真は、祖母の家の手仕事・自家製干し柿。6-7年前の秋。
この記事は、2021年10月13日配信のここみち便りをリライトしたものです。
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