草香江ポエトリークラブ
「人」の温かさを感じせる唯一無二の演劇公演
”たづたづしさ”が表現する人間模様
草香江は、福岡市中央区に実在する地名であり、都会の喧騒から少し離れたとても心地の良い場所である。
物語は、店主・蔵山が営む「喫茶シトロン」という古くからある喫茶店から始まる。内容に全て触れていると、とてつもない時間がかかるため簡単に感じたことや観劇を経て人生について考えたことを書き連ねたい。
”たづたづしさ”とは
たづたづしさは古典日本語であり、現代日本語で言う”たどたどしさ”
つまりは「おぼつかない」「心許ない」などのような意味を持つ。
人間のたどたどしい部分というのはいつになってもどこかにあるものだ。
その確信を迫るかのように物語は展開する。
演劇と地方創生
今回の公演は、いや演劇の世界ではどこでもやっていることなのかもしれないが前述の通り実際にある地域を舞台に物語が展開される。
兵庫県の調査では、演劇が認知症の進行を和らげる効果があるということから小学生から演劇ワークショップを実施していることもあり、演劇がもっと身近になるような地方を創ることは現在の日本の課題だと私は考えた。
特に、喫茶店のようなただ「コーヒー」や「プリン」を提供する場と考えがちだが、まさに今回の「ポエトリークラブ」のようにそこで居合わせた人々が同じコモンズ(目標,目的)に向かっていることもある。
その軌跡の紡ぎ合わせが地域に色をつけることになる。
場所が生み出すものは、とても大きい。
そんな「場」を作る、人間のキャラクターは大抵の場合はユーモラスで
情熱的である。今回の演劇のキャラクターもその通りであった。
地方創生の定義づけは難しいものであるが、私の考える地方創生の定義とは「そのきっかけを作り、物事を自主的かつ持続的に動かすことができる」ということである。
演劇は、周りが許しさえすれば、どこでもいつでも
「人間」がいれば演じることのできる。唯一無二の芸術である。
分量と方法さえ守れば…。
”お菓子は人を裏切らない!”
林のスイーツ男子っぷりには、脱帽であるが。
確かに、お菓子を含めた料理というのは、ある程度のレシピが存在して
分量と方法さえ守れば上手に作ることができる。
物語の中盤、終盤とコーヒーを淹れる場面、ホットケーキを焼く場面と
実際にその場で作るという場面が出てくる。
(とてもコーヒーの香りがして、飲みたくなったのはここだけの話)
終盤、紆余曲折ありながら林は
”お菓子は人を簡単に裏切りますよ”という
つづいて、”何度も裏切られて〜中略〜愛をね、愛を込めるんです。”と
その愛情とは、まさに喫茶シトロンでの毎日なのである。
ありふれた毎日をいかに大切にできるのか、家族・親友・仲間
全ての人への感謝や愛情を意識させること。
ある意味では、私のように演劇や音楽など鑑賞する人というのは観ることにより、自分を奮い立たせ、明日の活力にしているのかもしれない。
この部分に限らず、物語の小さなワードから様々な情景を連想させることができる。見る側の想像力に委ねられる部分もあるが、考えを巡らせることが人として成長を促すきっかけになるのは間違いない。
人間味あふれる舞台づくり
店内を見渡す視線
元々、オペラ制作の現場にいた人間として、毎回何かを鑑賞したときにチェックしているのは舞台(ステージの作り)、美術(大道具、小道具)、衣装である。
大きな場面転換がなくとも、人間の様で場の「色」を変えることができる
この演劇集団は未来栄光だと感じた。
丸テーブル、古びたバーカウンター、アリクイの壁画(多分)、電球が露出している店内照明、腰掛けのエプロンと白のブラウス。
質素であるが、そこにそれぞれのキャラクターのエッセンスがあるから
また魅力的に感じる。上演開始早々の谷崎が無言でコーヒーを嗜むシーンで
あぁこの演劇は正解だ、素晴らしいと感じた。
カランカランというドア
よくよく考えてみると、”カランカラン”と鳴るドアを久しく見ていない気がした。今回、観客の視点には”ドア”がなかった。厨房の入り口も、布地がかけてあるだけだった。
これは私の考えすぎなのかもしれないが、”ドア”つまりは空間と空間を遮るものがない。全ては繋がっていて同じ空間にあるということだ。
蔵山の親友、谷崎の詩に対するブランク、里見の悩み、林のスイーツ男子。全ては喫茶シトロンに繋がっているのだ…。
”カランカラン”となって次誰が出てくるのか、もしかしたら次は幻が出てくるのか…。そんなことを考えさせられた。
まとめ
この公演に関わった全ての人に感謝と拍手を送りたいとそう感じた演劇でした。人の心を表す「演劇」を私はこれからも応援したい思うし、灯台とスプーンのアンバサダー(勝手に)として、ファンとして推し活させていただきます!