’鬱病人生’パート①
初めて心療内科を受診したのは14年前、21歳の時だった。
それまで家族も友達も心療内科とは無縁だったこともあって、”精神科”くらいにしか思っていなかった。
もともと異文化に興味があり、高校を卒業して、語学学生として海外に行くことになった。
実際、語学学校は1ヶ月で行かなくなった。
親が裕福で留学しているわけでもなく、仕送りもないため、小さい頃から貯めたお年玉30万と高校時代の時給800円のラーメン屋で貯めた50万は、日本の倍の物価の異国では思ったよりも少なく、学校に行くことよりもまず生活費を稼ぐことが重要だったってのもあるし、単に長時間静かに座って勉強をするのも好きじゃなかった。
日系のバイト先で出会う歳上の日本人たちと遊び始めて、どんどん新しい友達ができて、外国人の親友もできて、若かったこともあり、英語もすぐになんとなくわかるようになって、貧乏だけど毎日が充実していた。
半年前までいた、前髪のうねりを友達に笑われる女子クラスの高校のノリから、ジャッジメンタルのない大人と交流を始めたことで、精神的に自由になっていく感じがして、多感な時期に自分の社交的な一面が開花していく感じがした。
1年があっという間に過ぎて、私はイギリスで£4000(80万位)を貯めた。イギリスに残りたかったが、母親からのメールであんた将来どうする気なの?とよく質問されるのも気がかりで、一回日本で美容師の資格をとって手に職をつけて帰ってくるのもいいし、他の国にワーホリに行ってもいいと思いつつ、私は一度日本に帰国する前に折角だし貯めたお金でヨーロッパをバックパックしようと、ほぼ無計画、期間も決めずルートも決めずにイギリスからギリシャに飛んだ。結果、3ヶ月間、旅という言葉では済ませられないような経験をした。
トルコでイスラムの建物や活気のある市場に圧倒されつつ、猫に癒されたり、オーストリアでウィーン合唱団を拝聴したあと、市役所で開催されていたクリスマスマーケットの美しさに涙したり、スイスで絶景の電車に揺られながらチーズファンデュを食べに行ったり、マッターホルンの麓の登山中に亡くなった方々の集団墓地で故人へのメッセージや写真を見て人生について考えたり、イタリアでワイナリーやオリーブ畑でイタリア料理を堪能して、色んな美術館をめぐったり、恋をしたり、世界は広くて楽しい人生が待っているんだと確信した。
日本に帰国して実家に帰るとすぐに現実に戻された。
あんた将来どうするの?が口癖のカリカリした母に、無口な公務員の父。
海外で太って帰ってきたと笑う姉と高校時代の友達。
バスに乗っていると、窓に映る全てが灰色に見えた。
私と同じ時期に東京に帰国した海外で仲良くなった6個上のお姉さんにメールをしたら、お姉さんも満員電車に揺られていたら涙が止まらなくなった日があると言っていた。早く、お金を貯めて海外に行かなきゃ、と思った。
求人誌で一番時給のいい派遣バイトに応募したら、合格した。
ホームセンターでの携帯販売の仕事だった。
ガストでの面接で、27歳くらいのよく地方にいそうなスーツが似合ってるんだか似合ってないんだか分からない男に面接をされた。デレデレしていて、こんな可愛い子が来てくれるなんてと外見ばかりを褒められた覚えがある。
OLみたいなスーツに、フライトアテンダントみたいなスカーフが支給された。
エスカレーター下の天井の低く狭い店は5人の少人数のチームで、私以外に藤原竜也似の店長に、ずっとニコニコしているニキビ面の男、目の底が笑っていないおかっぱの女に、狐顔の細身の黒髪の女がいた。
携帯を販売するだけなのに、妙に沢山のルールがあった。
朝礼で輪になって社訓を大声で読んだり、壁に貼ってあるポスターの前でお辞儀の角度の確認などがあった。店長はか細い声で不器用そうに社訓を読む私を見て一度、吹き出したことがある。
髪の色は7番以下と決められていて、頭の横に毛のサンプルを並べ検査をされた。7番より明るい髪の私は、おかっぱにすぐに染めてくるように言われた。
ヒールは高過ぎず、低過ぎずと言われたが、もう良く覚えられなかった。
私はすぐにここが自分の居場所じゃないことがわかった。仕事の経験はないが、バイトでは、テキパキしているし周りが見えているとどこでも褒められていた。
一ヶ月後、母親に辞めたいと言ったら、もちろん反対だった。母親はたまにホームセンターに来て、遠くから嬉しそうに私が働く姿を見て、制服姿も気に入っていた。
仕事は嫌なことを我慢するのが仕事だ、社会人とはこういう我慢の積み重ねだと言われた。数年後にこの時はあんたを理解してあげられなくて悪かったと謝られたのだが、スーパーのレジ打ちや都市ガスのメーター検診、温泉施設の掃除、介護ヘルパーのパートなど色んな我慢をして家計にお金を入れ続けた母にとっては、それが正義だったのだと思う。
夕食時になんとなく見ているバラエティも全て下らなく思えた。酔うと饒舌になる父がこの女優最近綺麗になったね、そう思わない?と話しかけてきても、世の中にはもっと父娘が夕食時に話すに適した話題がある気がしてイライラしたし、母親は社会人になって家にいるなら毎月お金を入れるのが常識だと、友達の子供は自動車メーカーに勤めていていくら入れてくれるらしい、とかをずっと話していた。
夜の眠りが浅い、朝起きるのが辛い日々が続いていた。初めての経験だったが情報が少ないこともあって心が壊れてきていることには無自覚だった。
ただ、ずっと何かを頭で考えていた。
人生を楽しんだ代償だと思ったし、世間に馴染めない罪悪感のような気持ちで満たされていたし、自分は平凡で貧乏な女だったことを再認識している最中だった。
ある日、接客をしているとき、突然火照りを感じて頭まで真っ赤になるのを感じた。息が浅くなって冷や汗が出た。客は優しそうな中年のおじさんだったが、一瞬のことで不思議そうに見ていた。バックヤードに一度戻り、深呼吸をして自分が大丈夫なことを確かめた。説明を無事終わらせ、携帯と契約書の入った手提げ袋を店頭で渡し、練習したお辞儀をしている時、頑張ってね。と肩をぽんぽんと叩いてくれた。
それからは、また’それ’がくるのか、きたらどう対処するのかに意識がとらわれていった。手や声が震えたりする時もあって、店長に笑われてしまうと思った。
そこから朝、物理的に身体が起きれなくなるまで時間はかからなかった。