「鬼滅の刃」が社会現象化する理由 〜 大正時代・学園もの・ハリーポッター
「鬼滅の刃」が未曾有のヒットです。先日公開された劇場版「無限列車編」は公開当初から上映回数や興行収入が話題となり、口コミのみならずヒットの様子を伝える報道そのものが更に客を呼び込んでおり、社会現象化してるのはご存知の通りです。
本稿では、「鬼滅の刃」が社会現象となった理由を考えています。
ぼくは原作は未読、TVシリーズすら観ておらず、鑑賞した作品はTVシリーズ第1〜5話を再構成した総集編「兄妹の絆」と、同じく第15〜21話を再構成した「那田蜘蛛山編」のみ。そんな、ファンからすれば予備知識ゼロに近い状態で劇場版「無限列車編」を鑑賞しております。
正直、鑑賞した動機は、「なぜここまでウケてるのか」を考えたいからでした。ところが実際観てみると、面白い。胸が熱くなりました。正直な感想です。そうなると余計に面白さの理由を深掘りしたくなります。
「なぜここまでウケてるのか」を考えてるにあたって、作品を観ていくつか疑問がありました。
①なぜ大正という時代が舞台なのか
②なぜ大人が活躍しないのか
というものです。
こうした疑問を紐解きながら、社会現象は大人の協力無くしては生まれないという前提をベースに、鬼滅ブームの理由を考えていくのが本稿での試みであります。
①なぜ大正という時代が舞台なのか
「兄妹の絆」の冒頭、TVシリーズの第1話にあたる部分では、時代設定の描写がされていました。里山に住む竈門炭治郎(かまど たんじろう)ですが、町には電線が走り、夜になると民家では電気を消して就寝する、という描写があります。はじめは驚きました。帯刀して戦う作品なので、江戸時代より以前の設定だと思い込んでいたからです(鬼殺隊服が詰襟なので少なくとも明治以後だというのは気付くべきでしたがそれはさておき...)。
ところが、炭治郎が旅に出ると、時代設定の描写は近代から距離を置くようになり、世間と隔絶された舞台に変化します。そこからは、小銃や拳銃を使われても良さそうな時代に、刀を使っての鬼退治。まるで中世の昔話のようです。ではなぜ大正時代を舞台にしたのか。
そんな疑問を抱きながら続編の「那田蜘蛛山編」そして「無限列車編」を鑑賞したわけです。そうすると、今回の劇場版では遂に機関車が出てきました。そして、大正時代の市井の人々も登場。学ランと制帽、スーツに帽子、ロングコートなど...当時のファッションがしっかり描かれ、帯刀する炭治郎らとの対比が明確に描かれました。進歩する時代に合わせて生活する人々と、古風な装備で鬼と闘う鬼殺隊。なぜ彼らは時代から取り残されているのでしょうか。
②なぜ大人が活躍しないのか
鬼滅の世界では大人が活躍せず、事件を解決していく主体は子供です。主人公が子供なのだから当然というわけではなく、大人が意図的に排除されているように思えます。炭治郎や鬼殺隊の先輩隊員、そして柱は基本的には子供。
出てくる大人といえば、回想で登場する炭治郎の両親や、炭治郎の師である鱗滝左近次(うろこだき さこんじ)、鬼殺隊の当主・お館様こと産屋敷耀哉(うぶやしき かがや)が印象に残るくらい。しかし、こうした大人は、病弱であったり何かを喪失していたりと作中では哀れな存在として描かれており、鬼との闘いの第一線からは離れています。子供は大人になる前に鬼との闘いで早死にしてしまうから、という面もあるかもしれません。が、生き残って活躍している大人を描かない理由にはならない。「無限列車編」の冒頭でも、お館様が死んでいった子供たちの名前を呟き死を嘆く様が強調されていました。なぜ、子供へのフォーカスにこだわっているのか。
第一層 これは学園もの?
これは学園ものなのかもしれない。それを感じたのは、「無限列車編」での炭治郎たちと煉獄杏寿郎(れんごく きょうじゅろう)とのやりとりからです。
本編前半でのギャグを交えての軽妙なやりとりに始まり、クライマックスでの死闘の末の杏寿郎の言葉に至るまで、先輩が後輩を引っ張るという構図が主軸にありました。これは何かなと考えたときに連想したのが、学生の部活動なんですね。
作中、鬼との戦いに全力で向き合う炭治郎たちと、サポートしながら柱としての実力を背中で伝える杏寿郎。しかしクライマックスでは、強敵である上弦の鬼と杏寿郎との一騎討ちとなり、炭治郎や伊之助らは手を出せません。闘いのレベルに圧倒されたからというのが理由でしょうが、杏寿郎の全力の戦う様子に憧れていたというのもあると思います。戦いの末、美しく描かれた夜明けのもとで杏寿郎はぼろぼろになっても尚、動けなかった炭治郎らを励まし(慰め)つつ、次世代に希望を託すような言葉をかけます。
夜明けの描写は、新しさや希望を伝える隠喩です。どんな結果に対しても絶望するのではなく、明るく次の世代の後輩にバトンを渡す。こうした構図は、学園もののスポーツドラマでよくある関係性に似ています。鬼殺隊が世間から浮いている理由も、部活や学園祭特有のノリの延長にあるからだと考えることもできます。
劇場版を映画館で観てみると、子供と大人のリアクションの違いが際立ちます。子供は、メインであるアクションシーンは真剣に見つめ、ギャグシーンは当たっていれば「わっ」とウケる。大人はというと、すすり泣く音が結構聞こえるのです。子供以上に感動するというのは、作中の美しくも儚いやりとりや、「青春」を思わせるストーリーがノスタルジーを望む大人の心に刺さったからだと思います。子供に付き合って観ていたはずの大人がはまる。大人の協力なくしては生まれない社会現象化への理由の一つは、こうした普遍的なストーリーにあるのかもしれません。
第二層 ハリー・ポッター
ここまで述べてきたのは、鬼滅の刃作中の違和感とその理由から、なぜ大人も感動する作品になれたのか、という点についてです。ですが、これでは「いい作品」留まりで終わってしまう。社会現象になり得た要素はなんでしょうか。
結論から述べると、この作品には「ハリー・ポッター」の類似性が多く、その類似性が社会現象化に寄与したのではないか、というのがぼくの仮説です。類似性というのは、主人公には「額の傷」があるとか、悪に立ち向かう集団(鬼殺隊・不死鳥の騎士団)があるとか、持ち主との間に絆が生まれる武器(日輪刀・杖)があるとか、そういうアイテムによるものではありません。
軽く「ハリー・ポッター」について説明しますが、「ハリー・ポッター」の世界では、現代社会(ロンドン)と魔法族社会はほとんど隔絶されています。魔法使いたちは、古風な装いをし、現代的なインフラは利用せず、独自の生活圏を営んでいます。主人公ハリーポッターは、魔法使いのための学校「ホグワーツ魔法魔術学校」にて魔法を学ぶ少年ですが、在学中には友人と共に様々な危機に立ち向かい、やがて闇の魔法使い「死喰い人」との闘いを先導する存在となります。
現代社会のマグル(一般人)からは離れた魔法の世界での生活や、アクション、ファンタジー要素にはわくわくしたものですが、こうした構造、つまり「あえて古風なところで世間のあずかり知らぬ存在と戦う少年の物語」は、「鬼滅の刃」の世界にもそのまま当てはまっています。ロマンある舞台設定には子供や大人は関係なくはまってしまうものでしょう。また、前述のように「鬼滅の刃」には学園もの的なドラマ構成・構造があるところ、「ハリー・ポッター」もまた学校が舞台であるという点も類似性を支えていると思います。
「鬼滅の刃」の世界での大人の立ち位置は本稿でも指摘したところですが、「ハリー・ポッター」の世界の大人もどうも頼り甲斐がない。闇の魔法使い「死喰い人」の増長を許したのは明らかに大人の魔法使いたちであったり、危機が発生したときに真っ先に対応するのはハリーポッターら学生たちであったりします。大人には大人の闘い方があるのは当然として、多くの魔法使いは危機を事後的に認識し、マグルの社会はそんな事件があったことすら知らずに生活する。
あとは、これはこじつけ感は否めませんが、両作共に意外と残酷なギャグやジョークがよく飛び交います。ハリーポッターは、綺麗な心の持ち主ではありません。嫌な同級生が何か不運なことがあったら蔑むような笑みを浮かべますし、同じ寮の友人についても聞く人によっては「いじめ」「いじり」の類の言動が多い。「鬼滅の刃」でも、「いじめ」はなかなかないですが、友人を小馬鹿にしたような言葉はしばしばあります。
このように、「鬼滅の刃」と「ハリー・ポッター」は、主人公らの置かれた環境(舞台設定・まわりの大人たち)やその影響による精神性において多くの類似性があります。子供が興奮して鑑賞する要素に加えて、大人が気付くちょっとダークな要素がある。こうした作品内の構成は、いつの時代においてもヒットする「方程式」なのかもしれません。もしかすると、「鬼滅の刃」の原作・編集サイドがハリポタブームの再現を狙った可能性があるかもわかりませんが。
第三層 大人は泣いてはいけない
「鬼滅の刃」は、子供向けと思っていたら、大人もしっかり鑑賞できる作品であるというのは強調しておきたい点です。
ここで、はじめに挙げた疑問、①なぜ大正という時代が舞台なのか、②なぜ大人が活躍しないのか に回帰したいと思います。
大正時代において世間から離れて鬼からの脅威に立ち向かう炭治郎ら鬼殺隊。世間との隔絶という要素が必要であれば、「ハリー・ポッター」のように現代の日本でも良かったはずですが、なぜあえて大正時代なのか。大正時代とはどんな時代だったのか、から少し考えていきます。
明治の近代化によって生活模様は一新され、江戸以前の習慣や考え方が僅かに残りつつも時代の変化が日進月歩で起きているのが大正時代です。作中、「鬼」の存在は中高年以上の人は知っていても、子供である炭治郎たちは「鬼」の存在をよく知らないのが当然な時代。炭治郎は鬼の存在を理解していなかったのは、里山の一部の人の間でしか言い伝えられない存在になっていたからかもしれません。大正時代の大人たちは、新しい時代を生きるのに大忙しだった。社会をより強くすることに躍起になっていた。「鬼」の脅威など考える暇もないのでしょう。
しかし、「鬼」は確実に身の周りに存在する。この物語での子供たちは、浮ついた大人にその処理を押し付けられています。その要求に懸命に応えて生きているのが、鬼殺隊なのです。目の前の脅威に対応できない大人は情けない存在として描かれている。鬼退治をする鬼殺隊の裏で、社会を営むのに必死な大人たちの存在。こうした二層構造が「鬼滅の刃」のストーリーを強くしていると思います。
だから、大人は安易に泣いてはいけない。子供と同じ目線で作品を楽しむのではなく、その残酷さに気づかなければいけない。鑑賞する大人は、何らかの罪悪感を抱いているのかもしれない。そのように心に引っかかるものがあるからこそ、社会現象化に至ったのかもしれません。
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参考
岡田斗司夫ゼミ「金ロー『ハリー・ポッターと賢者の石』が10倍面白くなる予習解説 / OTAKING explains "Harry Potter and the Philosopher's Stone"」
https://www.youtube.com/watch?v=TIxueLj5ECU
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