問題の問題の参考資料part1 田島正樹『読む哲学事典』
# 田島正樹『読む哲学事典』講談社現代新書
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<問題と未来>
## 本質と時間
### なぜ未来を考えることができるのか
p228
未来の個体は実在的でない以上、当然、指示することもできない。ただし、現在の個体(太郎や花子)を指示しつつ、その未来について語ることは可能である。それは、現実世界の個体に言及しながら、その反事実的可能性について語ることができるようなものである。
それなら、未来の出来事は実在せず、指示できないにもかかわらず、なにゆえ我々は未来の観念を持つのであろうか?何が我々を、この実在しない時間へ向けて思惟可能にしてくれるのか?未来が非存在であるとすれば、その存在しない未来について、現在において考えることを可能にしているものとは何か?そして、反復する運動とは違って、現在の延長として理解することのできないものこそ、新しい意味をもたらす出来事の生起、すなわち意味の生成であるとすれば、意味の生成というものを、未だ意味が生成していない現在において、理解可能にしているものは一体何か?言い換えれば、現在において、未来を先取りしている存在ーーその理解にこそ、我々の未来という次元の理解が依存し、それとの連関で初めて、現在の指示の延長に基づく語りにも、未来としての意味があたえられるーーそのような存在とは何か?
それは問題という存在である。
現在の諸要素が集まって問題を形作っているが、それをまさに問題として考える時、我々は、その解決という未知の実在について、ある仕方で考えているのである。それは、その本質の知に基づかない仕方であり、したがって、指示なしに存在を考える仕方である。未来はそのような仕方で思惟される。そして、解決が存在しているかのように見なして、そこから他の事物(現在の存在者として指示され、その延長上に未来にも存在しているだろう存在者)について語るとき、我々は未来時制の文を語ることになる。「太郎がその問題を解決するだろう」とか「花子はその問題が解決したとき現場に居合わせることはないだろう」など。これに対して、「〜年〜月〜日に日蝕が起こるだろう」というような未来時制の文は、文法形式上は確かに未来時制ではあるものの、未来文で表現される固有の様相理解を欠いている。その証拠に、過去の日付の日蝕についても、同様の語り方ができるであろう(五万年前の某月某日には、地球上に日蝕が起こっているだろう」など)。
<問題という存在者>
## 自由と問題
### 迷いながら試行を繰り返す
p127
そのようにすでに存在する存在者の本性からあらかじめ与えられた可能性の中では記述できない変化が問題なのである。それは与えられた存在者の性質変化ではなく、あらたな存在者が生成することによって起こっている変化である。つまり解決という実体が生成したことによる変化なのである。
解決を実体と考えるということは、いかにも唐突に見えるかもしれないが、数のような理念的対象も、性質ではなく実体と考えねばならないことを考えれば、決して不自然とは言えない。
### 問題の本質は何か、が問題である
かくて、問題という存在者は、他の実体と違って、その本質が知られないまま、その存在について語らねばならないという意味では、きわめて特殊な存在者であると言わねばならない。
メタ言語と主体性p233〜、弁証法と(再)定義p186〜 なども参考
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