3 二つの手紙
3.1 手紙1
忘田 先生
(いつものように最初の挨拶その他は省略させていただきます。)
先生は覚えていらっしゃらないかもしれませんが、同封する手紙は、私が哲学をしようかどうか迷っていたときに、いつも顔を合わせて話をしていた友人の一人が書いたものです。彼は私と同じ歳で、私が先生に指導を受けていたときに、何度か研究室に尋ねてきたことがありました。いや、そういった私と彼との個人的な関係は今は度外視して、先生にお尋ねしたいのは、私はこのような彼の手紙とも言えないような手紙に返事をすべきかどうか、ということです。対話を書き連ねただけの手紙は私はもらったことがないので、どうすればよいのか分からないのです。もしもよろしければ先生のご意見を、簡潔にでよろしいので、お伺いできればと思います。
(いつものように最後の挨拶その他は省略させていただきます。)
お返事お待ちしております。
記木
3.2 手紙2
記木 君
まず、君と彼との関係は今や度外視してよいとのことだけれども、念のために言っておけば、私は彼に会った記憶はほとんどない。君が哲学しようかどうか悩んでいたときのことも、老人となってしまった今では、ほとんど記憶がない。もうそれが何年前だと言われたとしても、他に何があったか思い出せないだろう。しかし、一つだけ覚えていることといえば、アリストテレスの「哲学の勧め」には有名な文句があって、「哲学すべきかどうか哲学しなければならない」とのことだよ、と冗談で君に言ったことくらいだろうね。
さてそれで、君は彼に返事を書くべきかどうかということだけれども、まず、返事は書くべきだ。たとえ彼に送ることにならなくとも、返事を「書く」ということが重要だ。それがなぜかは、君が書いてみたらわかるだろう。そして君が書いてみればこそ、彼が書いたということがどういうことであったのか、彼がそれを君に送ったのがどういうことか、わかる手立てが見つかるだろう。
彼の対話の中身に関していえば、君自身も含める君の周りの人々が言っていることと深く繋がっている。つまり、君自身が考えることのうちにも、そして君を取り囲んでいる友人たちが考えていることのうちにも、彼の対話のうちに示された哲学は、断片的にであれ、散見されることであろうと思う。実際、君が最近読ませてもらったという修士論文は、なぜ哲学ができなくなるのか、という問題を突き詰めたものだと言ってよい、と君自身が言っていただろう。思うに彼の対話のベースにある問題意識は、それとかなり似ているのではないか。つまり、「なぜ我々は哲学しないのか」の哲学が問題だということ。あるいは「なぜ我々は対話しないのか」の対話、と彼の対話を言い換えてもいいだろう。これが私の診断だ。
ああ、それともう一つ。対話は子供が教えるのだ、という彼の見解は、私の趣味によくあう。まあ、しかし、趣味であるだけでなくて、私の周りの気の合う哲学者はみな、本来そう考えていたと思う。本来そう考えていたなどというのは、最近ではそれをはっきりと言っているのはほんの少しの人々だからだ。本来そう考えていた人たちは少なからずいたのに…。どうやら当初の意図を忘れつつあるのだろうか。自分が老人になるのも恐ろしいが、気の合う仲間が老人になっていくのは、なんとも寂しいことではある。まあしかし、こんなことを君に言っても仕方あるまい。
まあ、とにかく、対話は子供が教えるのだということは、子供が学びたがっているだけでなしに、教えたがってもいることに敏感であれば、明らかなことなのだがね。少なくとも哲学対話に限っては、そうでなければならない。哲学の「子供」から「大人」が学ぶ。これはいつの時代になっても哲学の始めのギリシャ哲学から我々が学んでいるのと、全く同じことなのだよ。大人になっても学ぶことが必要だというのは、他の大人から学ぶというだけでなしに、子供から学ぶということもふくむわけだ。老人たちは単に尊敬されたいというだけのことから何でもかんでも教えたがるのだが、これほど醜い老人の姿は私はないと思うね。尊敬されたいと自分では思っていないつもりでも、そうなってしまうということに全然意識が向かない。そういう老人を前にして、子供達は何も教えるつもりも学ぶつもりも失せてしまい、ただ黙っていたいと思うだけだろう。そうではないかね、君?私の前で黙っているのが多いのは、そういうことだろう?笑
こういうわけなので、君はとにかく彼に返事を書くべきだ。そして、私にも返事を書くべきだ。それは送らなくてもいいんだから。でも、送ってもいい。私にはそんな手紙がたくさんあるのだよ。
それでは。
忘田