哲学病気説についての資料的なものという名の雑記
1 なぜなぜ病
生きにくい…―私は哲学病。 (角川文庫) 中島 義道 https://www.amazon.co.jp/dp/4043496036/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_-Y3xCbT946WMB
(下のページ数は、角川書店(単行本)のもの。)
p13
お医者の先生は難しい顔をして、イマヌエルちゃんをひっくり返したりころがしたりしていましたが、暗い顔つきで部屋を出ると、お母さまにひっそりと言いました。
「これは<なぜなぜ病>という恐ろしい伝染病なのです、村のはずれの奧さん。この病気にかかりますと、重い場合は一生なぜなぜといって過ごさねばなりません。それに伝染病ですから、隔離しなければなりません。村のはずれの奧さん。なるべく人里離れたさびしいところがよいのです。軽いときには、あんまり寂しいので治ることがあります。あるいは、不思議なことに<なぜなぜ病>の重病人のそばに連れていくと、けろっと治ってしまうこともあります、村のはずれの奧さん」
p14
「ですが、先生。ぼうやはだれからうつされたのでしょう」
とたずねました。お医者の先生はやっと落ちついて答えました。
「これは不思議な不思議な病気でありまして、ある体質の人は、自分で菌をつくりだしておきまして、自分が真っ先にかかってしまうのであります。村のはずれの奥さま」
…略…お母さまはふと、昔お婆さまが<なぜなぜ病>にかかったことを思い出されました。そのことは科学も発達しておりませんでしたから、むやみやたらとこの病気にかかる人がいたのですが、たいていはさびしいところにしばらくほうっておくとたちまち治ってしまいました。でもお婆さまの病気はついに治らず、お婆さまは今でもたったひとりで人里離れた谷間に住んでいらっしゃるのです。お医者の先生は、
「ぜひ、その谷間にぼうやをやりなさい、村のはずれの奧さん。ぼうやはきっとよくなりますよ」
と言って帰ってゆきました。
p19
一日目の口頭試問がはじまりました。お婆さまは顔をきっとひきつらせて、突然、
「イマヌエルや、なぜ、なぜがなぜなんだね」
とおっしゃいました。イマヌエルちゃんはワクワクしてたずねました。
「お婆さま、お婆さま。<きのう>はどこへ行って、<あした>はどこから来るの」
お婆さまはがっかりなさいました。そして、のどの奥からペッペッと糸をたぐり出しながら「みこみがない、みこみがない」とつぶやきました。
p20
イマヌエルちゃんは何のことだかわかりませんでしたが、お婆さまのこわい顔を見ると声がつまってしまいました。
二日目の口頭試問が始まりました。
「イマヌエルや、なぜ、なぜがなぜでなぜなんだね」
イマヌエルちゃんはドキドキして尋ねました。
p21
イマヌエルちゃんは、何が何だかわかりませんでしたが、お婆さまのきのうよりももっとこわい顔を見ると、また声がつまってしまいました。三日目の口頭試問が始まりました。
「イマヌエルや、なぜ、なぜがなぜで、なぜのなぜなんだね」
イマヌエルちゃんは心配そうに小さな声でたずねました。
2 哲学病気説
死の練習 - シニアのための哲学入門 - (ワニブックスPLUS新書) 中島 義道 https://www.amazon.co.jp/dp/4847066162/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_F83xCb790D3JG
p19
以下、本書では、人類のすべてを、哲学の専門家ないし真剣に哲学を修行している者と哲学的素人とに分け、ヒュームにならって、前者を「哲学者philosopher」、後者を「俗人vulgar」と呼びましょう。
こう言うと、なんだか前者の方が「偉い」かのような印象を与えるけれども、そうではなく、あくまでも哲学的問いに「引っかかって」いるか否かの差異であって、私の大学での指導教官であった大森荘蔵先生は、後者を「まともな人」、前者を「まともでない人」と訳すべきだと主張していました。これは、先生の持論であった「哲学病気説」に基づき、哲学者とは「哲学病」に感染した者、そして俗人とはその感染から逃れている者となるでしょう。
一言言っておけば、私自身は、人類のすべてをこの二つに分けることには全く賛成しない。
3 哲学病気説の敷衍
https://twitter.com/shogoinu/status/1094071588259938304
たしか The Third Manさんは、子どもの頃はみな愛知性(仏性とのアナロジー)があったはずと言っていたから、ここにあるのは(大雑把には)上座部と大乗の対比だろうか。
つまり、僕のような人は、子どもはみな哲学者で、大人もみな、きっかけさえあれば童心に返って哲学者になれると信じている。(つねに疑いはあるものの。)
The Third Manさんは、子どもはみな哲学者だということを否定してはいない。そのことは認めたうえで、子どもでありつづけることや、子どもに返ることが、一部の人にしかできないと考えている。(それだけ子どもと大人との間に断絶をみている。)
https://twitter.com/tritosanthropos/status/1094218572371357696
「哲学病気説」が『死の練習』p19で言及されている。冗談ではなくて、進歩した医学が哲学病の原因を突き止めると考えると面白い。さて、哲学病気説が仮に正しいとしてみるとその病気の原因が愛知性であると思われる。この愛知性は悪玉であって、善玉は抗愛知性である。人間はこれら悪玉と善玉を必ず備えて生まれてくるのであり、その割合が各々異なる。特別な例外を除いて、遅くとも15、6歳までには悪玉のほとんどは善玉に駆逐されてその割合は1対99くらいになる。そこで0対100になることが考えられるが、そうすると不可逆になって悪玉は息を吹き返さない。逆に100対0になる場合が考えられるが、それは人間には起こらない。天使や神々だけに起こるからである。
哲学病気説の仮定の下では、「きっかけ」が十分にあったとしても、それだけで哲学者になることはない。なぜなら、「きっかけ」はわずかばかりに生き残っていた悪玉が一時的に活性化するにすぎないからである。悪玉が善玉を駆逐し始め次いで凌駕することによってようやく哲学者になる可能性が出てくる。つまり「きっかけ」に加えて練習が、練習に加えて自ら自身を鍛錬することが持続的に行われなければ、哲学者にはなれないからである。