哲学対話の喜劇的解釈の序論としてのワークショップの日記
昨日はコーハン氏とスプリッター氏のワークショップに行ってきた。
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二人の違いについては、何と言っても彼らのファッションがそれを如実に示していただろう。コーハン氏はオレンジっぽいTシャツ、スプリッター氏は襟のついたYシャツ。
はじめに私はコーハン氏のワークショップを体験した。時間の制限や人柄、そして何よりも参加者側の盲目で偏った無自覚な期待や希望によって、おそらくはコーハン氏のワークショップがより良い評価を受けたように思われる。だから、私はあえてコーハン氏のワークショップに対する疑問点をあげておこうと思う。そして、コーハン氏に対するポジティブな評価に異論を立てようとは全く思っていない、ということは先に言っておく。
コーハン氏のワークショップは自分の問いに対する他者の二つの問いを受けて、新しく問いを立てる、というものであった。どうしてこれが「問い」でなければならないのだろうか。なぜ、答えを書いてはいけないのか。「子どもたちは答えることを強制されているからだ」とのコーハン氏の回答。これにはまだ納得できない。というのも、一つに、答えることを強制されていない場合では違ったやり方になるということか、という疑問もあるからだ。つまり問いを立てないで答えを与える、というふうになるのか、ならないのか。また別の疑問は、「答える」ことを強制されている、答えなければならない、というのは一体どういうことなのか。「答える」というのはそもそも何のことなのか。また、最も私が尋ねたいことは、問いから新しい問いを立てるということにおいて、なぜそれが問いでなければならないのか、ということだ。ある「考え」から新しい「考え」というのでもいいはずだろうが、それをある『問い』から新しい『問い』とすることが、どれほど特別な意味を持ち、一体そのことによって何がどうなっているのか。この点をはっきりさせないで、「みんな違ってみんないい」程度のワークショップを格安価格で値切って爆買いしていった参加者がいたか、いなかったか。
とにかく、新しい問いを立てさえすればいいと安易に考えてしまうのは、答えをはぐらかすことになるばかりか問いもはぐらかすことになるという警戒心と危機感を、哲学のことをよく知っているという自覚のない人の全ては努力して身につけるべきであろう。
思うに、この点をスプリッター氏は明確に言葉にしたのである。自虐であるとともにイロニーに聞こえたのは、教師でないような身分の私だけなはずがあるわけもなかろうが、「教師が黒板に問いを書くときには注意していなければいけない。なぜなら、教師が問いを勝手に変えてしまうから」と彼は言ったのだ。。長いこと哲学の教師をしている者にとってさえ問いをはぐらかしてしまうのは日常茶飯事だと密告しているのである。そういえば、コーハン氏は「聞くのは難しい」「聞くのを楽しむのは難しい」と冗談めかしながら幾度も言っていたこととと、スプリッター氏のこの発言は共鳴しないだろうか。共鳴したとすれば、問いをはぐらかしてしまうことに自覚的であるというだけのことしかできない、と言えないか。そしてこれが無知の自覚だ、と。
質疑応答の際には、スプリッター氏は探求の共同体における教師の役割は最小限であることが望ましいとのことを言ったが、確かにそれとは裏腹に、私たちの経験したワークショップでは、スプリッター氏の役割は大きかった。いささか大方の人は驚くであろうが、知的安全性インテレクチュアルセーフティを私が感じたのはスプリッター氏の方のワークショップであった。
その理由は、以前にも述べたことがあるのだが、セーフティを私が感じるのは単なる承認や許諾などという生ぬるいものに関してではなく、畏怖や緊張が高まるときである、というものだからである。https://note.mu/tritosanthropos/n/n11e84512788a とりわけ彼が、ある発言をphilosophical するにはどうしたらいいか、とか、それはphilosophicalであるか、と執拗にこだわっている姿が私をそう思わせた。他の雑多な余計なものでなく、philosophicalな発言をするように強制されたと感じて発言せざるをえなかった。私は、スプリッター氏の問いかけに、私の思考がよりいっそう動かされたmovedと感じた。「動かされた」とはコーハン氏がある問いから新しい問いを立てるときのことを説明してmovementといったことではあるのだが…。
さて、言いたいことはもっとあるのだが、ここまででやめておく前に、一つ。
http://shogoshimizu.hatenadiary.jp/entry/2018/05/30/114044
対話相手を探す哲学者は、独自の問題を抱えているはずなのだ。
一人で研究して思索していることに問題を感じて、
やがて問題を感じすぎて、いてもたってもいられなくなり、
外へ飛び出したはずなのだ。
それくらいあやしい人としてそこにいないなら、
僕は何かを隠しているんじゃないか
他人に何を言っても分かってもらえないことがあまりにしばしばあるために、独自の問題を抱え続けていると考えるのを余儀無くされている私は、一人で研究して思索することにばかり問題や疑念を感じ、アカデミズムに閉じ込められたくないと被害妄想を抱き、旅の癖なのかどこぞここぞをほっつき周り、これくらいあやしい人としてここにいてしまっているわけだが、童話や神話を通じギリシア古喜劇という論述形式に出会ったところなのであった。ある形式というのは不思議なもので、隠そうとしていたものを笑いとともに腹の底から口へと吸い出してくれるようだ。火が下から上に燃え上がるのと、どこか似ている。