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車とはこんなに違う。オートバイから見えるもの、聞こえるもの、感じられるもの。


オートバイ。
この素晴らしき存在。

オートバイ仲間の足立真輝さんによるRnineTの写真

こんにちは。
野良猫教授です。
オートバイは不思議な乗り物。
これは日常と非日常を往来できる、ある種の呪具。
最高の思考ツール。
あるいは哲学的存在。

私とは何か。
存在とは何か。
世界とは何か。
生とは何か。
死とは何か。
速度とは何か。

オートバイに乗るとそんなことをいつも考えさせられるのです。
もしよろしければこちらの動画もぜひ。

オートバイから見えるもの、聞こえるものは、
車のそれとは大きく異なるのです。
多くの人にそれを伝えたい。
限られた生を充実したものにするために、…
そんなお話をお聞きください。


バイクに乗ると開かれるもの

BMW RnineTが納車されて3年強。オドメーターは12,000キロを越えた。RnineTの前のG310Rでは4,000キロほど走ったから、通算で16,000キロをオートバイで走ったことになる。50代後半からの5年間。その間、おっかなびっくりではあるが、ぼくはオートバイと一緒に走ってきた。

オートバイに乗ることは、車に乗ることと全く違う。

それは事実だ。

どう違うんだろう?

今日午前の打ち合わせ中に少しそんな話になって、咄嗟に出た答えは、

街の人の表情や話している内容までわかる気がすること

だった。

車に乗って東京の街を移動することは多い。その時、ぼくは東京の街を、車のウィンドー越しの「景色」として見ている。

それがオートバイになると違うのだ。

オートバイで走りながらすれ違う車の中の人、レインボーブリッジを歩いて渡る人たちの表情、話していることすらわかる気がするのである。これは不思議な感覚だ。

もちろん、声が聞こえるわけではない。しかし、オートバイから見る東京の街は車から見るときのような単なる「景色」ではなく、リアリティのある「ドラマ」に見えてくるのだ。

それはおそらくオートバイに乗る時、人は五感をかなり鋭敏に働かせているからではないだろうか。車に乗っている時よりもずっと。
オートバイに乗っている時、何か新しい感覚が開かれているのではないか。

感覚の全てが煌めいている

こればかりはわからない人には伝わらないだろう。しかし、そうなのだ。私たち人間は感覚器官からの情報を脳で処理している。目からは視覚を得るし、耳からは聴覚を得る。鼻はガソリンの匂いや汐留あたりのドブ臭さを敏感に拾ってくれる。風が身体を嬲る音、また太陽の光の熱を肌は教えてくれる。

オートバイに乗る時、感覚の全てが開かれている気がする。全ての入力が明確なディテールを伴う鮮烈な情報として脳に送られている。

感覚の全てがキラキラと煌めいているのだ。

レインボーブリッジから見る東京湾と高層マンション。同じ景色なのに、車とバイクでは違って見える。

その違いは、車のウィンドー越しと、ヘルメット越しというだけでは説明がつかないほどだ。

この感覚は、情報処理に喩えられるはずだ。

「車を運転して景色を見る」という行為と「オートバイを操縦して景色を感じる」行為の情報量を比べると、おそらくオートバイを操縦しているときの情報量は車の数十倍だと思う。

オートバイに乗る時にインプットされるデータ量は膨大

なのだ。

だからぼくの身体は、感覚器官と脳は、その能力をかなり開放して演算しているのだと思う。

そのために歩いている人の表情まで読み取れる気がするのだと思う。

感じる能力と感じられるもの

オートバイは乗る人にたくさんの情報をくれる乗り物だ。それが楽しいわけだ。そしてその情報処理をしているうちに、感覚が研ぎ澄まされていくのだ。

一方で車は違う。車は情報処理をできるだけ簡単に単純にミスの無いように行えるように作られている。もちろん、メーカーによる差異はかなりある。

ポルシェはオートバイに近いくらい、情報量を多く乗り手に伝えてくる車で、しかもモニタースピーカーのように演出無しで伝えてくる。

BMWはポルシェよりはかなり情報量が少ない。そしてその情報はリアルではなく、乗り手を気持ちよくさせるように少し演出されている。

メルセデスはBMWよりも更に情報量が少ない。情報処理を負担に感じるようなタイプの人のための車だ。車の側がフィルターをかけて不要な情報を乗り手に伝えないようにしている。車の側が勝手に処理しておいてくれる、というイメージだ。

メルセデスは最低限のドライビングファンは残した上でのフィルタリングだが、トヨタのプリ◯ス辺りは家電に近いと思っている。ボタンを押せば走り、曲がる、というくらいの単純さを求める人のための車だ。

真偽の程はわからないが、ぼくの直感として、欧米(特にドイツ)の車は馬(うま)のイメージが根源にあるのではないか。

それに対して日本の車は籠(かご)だ。

馬は御するものだが、籠は乗せてもらうものである。

馬を御するには感覚を開かなくてはならない。しかし籠ならば寝ていればいい。

感覚を開き、リアルを見よ

所詮は全ては脳の中。

それが現象主義の考え方だ。この世界の全ては脳の情報処理に過ぎない。

そういう考え方も確かにある。

事実のような気がする。

だがしかし、オートバイで走るときの情報処理。
その鮮烈な感覚はぼくには実存だと感じられる。

それこそがリアルだと感じられる。

自分と世界が実存だと感じられる。

それで十分じゃないか。

毎日スマホを見て、スマホからプッシュされるものを消費して。
そんなことばかりしていたら、人生がゲームみたいになってしまう。

ぼくたちにはそんなに時間がないんだ。

だからオートバイに乗って感覚を開き、リアルを見よ。

リアルなんかどこにもないんだ、なんて嘯く奴は愚か者だ。

走ってみればわかる。

書いていたら走りたくなってきた。

今日は一月にしては少し暖かい。

行ってこようかな。

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海野裕(株式会社インターテクスト代表取締役)
おぉ、感謝感激、雨霰でございます😺