片山杜秀・岡田暁生両氏の対談について

Yahooに転載された片山杜秀と岡田暁生の対談が話題になっている(掲載は『中央公論 2021年1月号』)。「クラシック存亡の危機 今こそ見せてくれ 音楽家の矜持を」という挑発的なタイトルの通り、両氏はコロナ下での音楽文化について厳しい意見を述べている。具体的な批判の対象は音楽家や聴衆である。私も彼らの批判の対象であると思われるので、応答しておきたいと思う。

対談の要旨はおおよそ以下のようにまとめられるだろう。クラシック音楽は国家によって保護されるべき高級な文化であり、公的な支援を受けるのが当たり前との認識が音楽業界にはある。また聴衆も日本の音楽文化を育てようとはせず、いかにチケットが高価であろうと海外の有名オーケストラにばかり群がっている。結局クラシック音楽は日本に根付いてない。このままでは日本のクラシック音楽は滅びる。音楽家たちはいまこそ本来の矜持を取り戻し、地獄から這い上がるしかない。

本誌での対談はその後も続くが、クラシック音楽が成立し消費される歴史的背景を述べた後、再び「音楽家の矜持を」という意見の提唱に戻り終わっている。よってこの対談における両者の主張の核は、この話題になったYahooに転載された部分からも十分に読みとれる。

この対談には傾聴すべき部分も少なくない。例えば岡田は、自身の『音楽の危機』(中公新書)でも述べられていることだが、音楽文化の進歩のためにはこれまでの音楽文化のあり方に戻るのではなく、コロナ下での思索なしにはありえなかったような新しい表現が生れる必要があるという。西洋音楽の歴史を知る者にとっては納得のいく議論であり、表現者にとっても大いに参考になるだろう。

とはいえ、彼らの批判の論調には首肯しがたい点も多い。例えばこのような発言がある。

「クラシックは芸術だ」と主張すれば何かが通ると思っているようであれば、それはやはり甘いでしょう。その程度の音楽文化なら、一度地獄を見るしかないのかもしれません(片山、p.184)。

コロナ下にあってクラシックだけを「芸術だから支援されるべき」と特別視するのは解せません(岡田、同)。

私自身社会における音楽のあり方について、音楽家たちはもっと自らの言葉で語るべきだったとの思いがある。実際そのことについて書いた。しかし、私個人はクラシック音楽「だけ」を支援せよという声は聞いたことがない。言葉は足りなかった、または拙かったかもしれないが、そこに両氏の指摘するような甘えがはびこっていたとは思えない。

もしかしたら両氏の周辺にはそのような人たちがいたのかもしれない。またもちろん、批判は自由である。ならば批判を受けた側の人間として、両氏にはこう問い返したい。なるほど、日本の音楽文化は未成熟かもしれない。だが、「その程度の音楽文化」をつくったのは一体誰か? 

私の考えでは、この対談で批判されるべき点はポレミックな言葉の選び方にあるのではない(もちろんそれはそれで問題だと思うが)。それよりも、彼らが自らを音楽文化の外に位置づけて発言していることこそが問題である。確かに外からしか見えない風景があるだろう。言論における客観性の重要性は言うまでもない。業界の内側にあっては、なれあいや利害関係によって正確な判断が鈍る危険はあるだろう。

だが、外から批判することだけが音楽について言葉を紡ぐ者の役割だろうか? それが彼らの考える音楽を語る者の矜持か? 彼らもまた「その程度の音楽文化」に属している者ではないのか?

かつてルカーチはアドルノを「深淵ホテルGrand Hotel Abgrund」に閉じこもっているとして批判した。確かに深淵でしか触れることのできない真理があるだろう。だが、その深淵が現実との回路を持たないならば、それはただの廃墟にすぎないのではないか。そこに留まることは、現実の困難や不都合に対する、免責のための言い訳ではないか。

批評家と呼ばれた人々のことを考えるなら、彼らは危ういバランスの上に立っていたことがわかる(ここで批評史を繙くことは、両氏には釈迦に説法だろう)。少なくとも彼らの批評家としてのもっとも優れた仕事を眺めれば、それは外でも内でもない、境界上で紡がれた言葉であるとわかる。批評とは、日本において特異に受け継がれてきたそのありかたにおいて、危うさを生きることであったはずだ。そしてその言葉こそが、内と外をつなぐかすがいであったはずだ。

もちろん音楽批評も例外ではない。外部にあっては内部では見えないものを指摘し、同時に内部においてそれを外部へと開くことこそ、音楽を言葉にする者のあるべき姿であろう。だがこの対談において、片山・岡田両氏はその役割を放棄しているように思われる。言論人もまた文化をつくるものであるのに、どうして言論人だけが「その程度の文化」について免責されうるのか? 外に身を置くことが許されるのか?

岡田氏はコロナ禍と新自由主義経済によって、クラシック文化は無理を来していると言う。そして音楽家は自らを芸人として自認し、その根性を見せるべきだという。その例として時間制限なしのリハーサルを挙げている(p.190)。

私はこのような発言に、氏の無責任さを読みとる。では時間制限なしのリハーサルを可能にする環境や条件とは何なのか。後期資本主義にあって、クラシック音楽の持続可能性はいかにしてあるのか。根性を見せろ、矜持を持て、と挑発するのではなく、いまの世界にあっていかにそれが可能か、その条件を演奏家と共に問うことこそが、両氏の本来の役割ではないだろうか。

私は両氏のこれまでの業績を否定しようとは思わない。それらは日本の音楽文化にとって、けっして小さくない功績である。私自身大いに刺激を受けてきた。「『後出しジャンケン』はしない」という意志のもと、渦中に単著を著した岡田氏の真摯さを疑うわけではない。だがまさにそれゆえに、この対談を残念に思う。

私は、演奏家の代表として両氏を批判し、言論人との対立を煽るつもりはない。またこの対談に失望したからと言って、批評家・評論家不要論に与しようとも思わない。音楽文化にとって、それぞれの場所で、それぞれの仕方でできることがあるだろう。そして手を携えてこの地獄を乗り切るべきだと思っている。

地獄というと、私はマーク・トウェインの小説を思い出す。ハックルベリー・フィンは冒険の途中、逃亡奴隷のジムと出会う。ハックは密告の手紙を書くも、悩んだ末ジムとの友人関係を続けることを決める。「よし、じゃあ僕は地獄へ行こう All right, then, I'll go to hell!」。大江健三郎がしばしば引用するこの台詞の重さを、今こそ受け止めなければならない。

演奏家だけが地獄を見るのではない。もし地獄を見るのとすれば、それは音楽文化に携わる者全員である。実際それぞれが様々な事情で、この災禍を必死になって耐えている。音楽を語る者も例外ではないだろう。そしてその地獄から這い上がるのも、また全員一緒にである。それぞれの力なくして音楽文化の再興と持続はありえない。そのためには言葉を紡ぐ者が欠かせない。私は日本の音楽文化が守られねばならない価値を持つことを、そして言葉が音楽と社会とをつなぐ力を持つことを信じて疑わない。

以上が私の片山杜秀・岡田暁生両氏への反批判と、彼ら音楽を言葉にする人々への期待と信頼である。

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