「最後のピアニスト」は見事に退場したか――ポリーニについて
浅田彰は約40年前のあるエッセイの中で、マウリツィオ・ポリーニのことを「最後のピアニスト」と呼んだ(「最後のピアニスト――マウリツィオ・ポリーニを聴く」)。これは柴田南雄がブーレーズの第2ソナタのことを「最後のソナタ」と呼んだことに掛けている。柴田の発言はピアニストが礼服を着てステージで演奏することのできるソナタの最後のもの、西欧音楽のひとつの極北であるというものだった。浅田による「最後のピアニスト」という呼称は、この「恐るべき知性の創り出した恐るべき難曲」を「これまた恐るべき手」でもって完璧に弾き切った、歴史的存在としてのポリーニへ賛辞として読める。
ブーレーズのソナタをはじめとして《ペトルーシュカからの3楽章》やショパンの練習曲集など、70年代初頭のポリーニによる一連の録音は演奏史上の偉業と言って差し支えないだろう。この半世紀の間に数限りないピアニストが現れた。その中にはブーレーズの他、シュトックハウゼンやクセナキスらによる、ピアニストの限界を問う作品群を見事に弾き切る者も少なくない。古典的な作品の演奏に関しても、テクニック(テクニックとは何かという問いは今は保留するとして)の安定性においてポリーニを上回るピアニストの名前を挙げることもたやすい。しかし今なおそれらポリーニの圧倒的な録音は凌駕されていない。
問題はその後のポリーニ自身の演奏も、この時期の達成の反射の中で聴かれているということである。90年代後半以降のポリーニの演奏からは、加齢とともに盛年期の強靭な指さばきが衰えてきたことが明らかに聴いて取れる。ここ20年あまりの彼の演奏について、人は「往年の完璧な技巧はなくなった」という枕詞なしに語ることはない。称賛する者は「だがその代わりに深みや精神性を獲得した」などと続け、一方で批判する者は「よって聴くに値しない」などと続ける。賛否はいずれにせよ、80年代までのポリーニの演奏にあったものを基準に聴いているという点で両者にあまり違いはない。
ある演奏家をその生涯に沿って、その複数の演奏を比べ、変化を聴きとるというのは極めてまっとうな聴き方と言える。だがもしその一連の演奏に変わるものと同時に変わらないものを見出すことができないならば、(少なくとも批評的観点においては)その演奏家を語るということは成り立たない。この点において私たちはいまだポリーニを語ったことがあるとは言い難い。70年代から80年代の演奏、そしてそこにまとわりつく完璧という語によって私たちはポリーニのことを知った気になっている。
完璧という語は20世紀のピアニストの中では特権的に2人に捧げられている。ポリーニともう一人はもちろん、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリである。例えば『レコード芸術』誌上の特集「世界のピアニストランキング2018」では、特記されている18人のうちこの2人だけが完璧という語をもって論じられている(2018年7月号)。確かにこの2人の演奏に共通する要素を見つけるのは難しくないだろう。だが、この完璧という語は慎重に問われなければならない。つまり、何において完璧な演奏なのかを明らかにする必要がある。
ミケランジェリは何において完璧か。ミケランジェリは音色はもちろん、デュナーミクやテンポの設計から、ルバートの加減、両手の微妙な意図的なズレの演出まで、すべてを計算しつくし恐るべき精密さで実行する。その周到さと精密さの度合いにおいて完璧であると言える。これを身体の観点から言い換えれば、指先のコントロールにおいて、そして身体とピアノとの関係において完璧であると言える。タッチのスピードも深さも圧も、あらゆるパラメーターが必要以上にも以下にもならない。その指先とピアノとの幸福な関係は、ほとんど官能的と言いうる。ここに快楽主義者ミケランジェリの姿を見て取ることができる(これについては稿を改める必要がある)。
ポリーニの最盛期(と言われている時期)の演奏における完璧さとは、ミケランジェリのようなタッチや彫琢の精密さにあるのではない。おそらくそれは音楽を成り立たせている要素の比率のバランスのうちにある。一般に音楽は三大要素、すなわちメロディ・リズム・ハーモニーとで成り立つとされている。この三つのパラメーターのバランスに演奏家の個性が表れる。例えばリズムの厳密さを犠牲にしてメロディを際立たせたり(キーシン)、パッセージ内の個々の音をメロディとしてではなくハーモニーの中の粒として扱う(アルゲリッチ)など、様々な配分がありうる。これを指針としてポリーニの演奏を図示するなら、それは正三角形を描くであろう。メロディとリズムとハーモニーのバランスは完全に調和している。
ポリーニにおける完璧とはこのバランスのことである。ある要素が突出あるいは埋没することはなく、感情のうねりや技術的問題によってその堅牢さは微塵も揺らがない。浅田が〈普遍的コギト〉と表現したのはこの個別性を超えた、あるいは抑圧した上で成り立つバランスのことであろう。もちろんこれは往々にして非難の理由ともなる。そこに逸脱の面白味はない。無味乾燥、退屈、冷徹などという語はポリーニの批判者の口にたびたび上って来た。そのことの是非は今は問わない。ここでは完璧という語の圏域について確認するにとどめよう。
ではポリーニの演奏において身体とピアノはどのような関係を結ぶか。ここにはミケランジェリに見られたような親密さは見出されない。ポリーニはただ強靭な意志と肉体とをもってピアノに相対する。両者の間に快楽の関係はない。それは肉体的な衰えをみせている今なお、同じことが言いうる。盛年期にその前腕と手の鍛え抜かれた筋肉でなしとげていたことを、現在のポリーニは(それが成功しているかはともかく)椅子を当時より高めに設定することで、全身でこなそうとしている。ピアノを押さえつけることで、彼は何かを制圧しようとしているように見える。ここにはミケランジェリの過不足のないスマートさとはほど遠い、ある種の過剰さが見て取れる。
何が過剰なのだろう。ひとまずパトスであるとしよう。彼の内部には正三角形の閉域を突きぬけようとする衝動があると措定されうる。ポリーニはそのほとばしりを意志、そして筋肉によって制御している。なぜ彼はあのように苦しい表情で演奏するのか。なぜ彼は、スタジオでの録音においてさえ、あのような唸り声を絞り出しながら演奏するのか。それらは彼が何かを押さえつけているからではないか。ポリーニの演奏においては感情的な高まりと音楽的教養による抑圧が拮抗している。極度の緊張と興奮の状態にあるステージ上での、特に70・80年代における、その戦いの凄まじさは数少ないライブ録音から察するに余りある。
加齢による筋力の衰えはこの制御を不可能にした。2000年代以降にポリーニの実演に接したことのある者は、いずれも座席にいながらにして不安感に襲われたことがあるだろう。かつてその完璧な演奏で一世を風靡したピアニストが、ステージ上でもがく姿には痛ましいものがある。内から噴出してしまう何かを押さえつけることができず、さりとてその感興のままに音楽を紡いでいくこともできない。ポリーニの悲劇は音楽に身を委ねることを覚えずに老境に差し掛かったことだろう。
とはいえ、その不均衡からくる無骨さが思いがけない迫力を生むこともある。2000年代以降の一連のショパンの録音を聴いてみよう。第2ソナタの再録音(2008)などはよい例だろう。第1楽章の第1主題など情念のほとばしりに身をさらしてしまいそうな数瞬が聴きとりうる。また逆にカップリングのワルツ集には興に乗った瞬間や素晴らしい美音が記録されている。同様のことは前奏曲集の再録音(2011)にも言える。彼の感情と肉体の折り合いが最もついているのはノクターン集(2005)かもしれない。ここではポリーニのいつになく安らう姿や感情に素直に従う様を至る所に見つけることができる。ただし、いずれにしてもそれは束の間のできごとである。しかもそれは狙われたものではない。私たちは裂け目を覗くようにしてしかそれをみつけることはできない。それらを円熟や滋味などという言葉で片づけてはしまうのは安易だろう。変わっていく肉体と、意志との間の衝突と折衷として聴かなければならない。
(筆者の体験を記しておくならば、2004年にサントリーホールで聴いたシューマンの幻想曲第1楽章の末尾は、特に高音の美しさは今もって忘れがたい。)
一方平均律の録音(2009)があまりに平板で退屈なものに終わったとすれば、そこには今まで論じてきたような衝突がないからである。彼にとってバッハは高みにあるものであっても、音楽的教養と構築への意志で弾き切れてしまうかぎり、決して取り組むのに困難なものではないだろう。録音に紛れている声には、ほとんど鼻歌のような気楽さがある。ただしそれはポリーニの演奏を成り立たせていた危うさには程遠い。
ポリーニの演奏を注意して聴くならば、70年代や80年代の演奏においてさえも、そのような衝動が表面に表れる瞬間、一瞬均衡が崩れる瞬間を捉えることができる。例えば1977年にカール・ベーム指揮するウィーンフィルと共演したベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番。第1楽章のカデンツの後、最後の音へと向かう長いクレッシェンドをポリーニは耐えきれない。オーケストラとの間にずれが生じるのもかまわずテンポを上げて突き進んでしまう。またザルツブルクでの《交響的練習曲》のライブ音源は(1982)驚くべき推進力で突き進む終曲の中、一瞬現れるエピソードの歌いまわしなど人をはっととさせるだけの美しさを備えている。
完璧という称賛をほしいままにした時期の演奏と、裂け目が見え隠れする今に至る数十年の演奏と、果たしてどちらが優れているかと問うことにあまり意味はない。ポリーニを聴くということは、ポリーニたらしめているものを聴くことであってそれ以上でも以下でもない。
冒頭で引いたエッセイの中で、浅田はポリーニの演奏の反動性について述べている。ポリーニのような、個性を超えた普遍性を目指すことがひとつの個性となるような弁証法的存在は「西欧音楽のひとつの頂点であり、終点でもある」と言う。浅田は続ける[ゴシックは原文傍点]。
だがしかし、見事な退場ぶりというものが存在する。古い者はその点においてのみ新しい者を凌駕し、次の瞬間、姿を消す。
果たしてポリーニは見事な退場ぶりをみせているだろうか。30数年前にこう書いた浅田が現在のポリーニをどう捉えているのかは分からないが、高い評価は期待できないだろう。もはやポリーニに西欧音楽の歴史を重ね合わせることはできないのかもしれない。だが、だとしたらなおさら私たちはポリーニを聴き、問う必要がある。ポリーニとは何であったのか。本当に「最後のピアニスト」であったのか。予期される、おそらく見事ではない退場を遠くない未来に向えるであろうポリーニを改めて問うことは無駄ではあるまい。