阿弥陀経の光景
1.幸あるところの美しい光景
鳩摩羅什訳版の「阿弥陀経」は、玄奘訳版「般若心経」についで、広く読誦されている。
浄土真宗では枕経の定番でもあり、また仏事法事でも最も読誦されるお経と言える。
阿弥陀経は、極楽浄土の讃歌や、諸仏の世界観にも聞こえてくるが、その意味を理解するのは
大切なことでありつつ、意味が理解できたと言い切れることがない。
阿弥陀経だけ読んでも、おそらく断片的にわかった感があるぐらいで、やはり「難信之法」と
言われるほど、容易く腑におちることでもないのかも知れない。
学術的に、限られた史料から定説の如く一応の解釈が成り立ったとしても、そこは古典の扱いに始終する。
現実界にいるこの自分に、何の意味があるのですかというなら、
そのどっぷり浸かっている現実界というのが、なかなか大変であり、五濁悪世と日常で思わなくても、
本当の現実を直視すれば、さらに他人事感覚から目を覚ませば、現実界もこの自分も何ということかと
思わされることばかりになる。
自分は何ということをしてきたのか、世の中はなぜこうも不条理なのか、なぜ無体に生命が奪われるのか、
人類や地球を救おうとまで思わなくても、人はどうしてこうも悪意なく破壊をしてしまうのか。
父も死んだ、母も死にゆく、親戚のあの子は7歳で車に撥ねられて即死した、叔父も叔母も、親戚も、
一人ひとりいなくなる。この世の自分も、この世のシステムも、答えが出せない。答えがないから。
証明された正解があるなら、それを手順のようになぞればいい。
六方段にある諸仏がこうはっきりと言われていると阿弥陀経にある。
汝等衆生 当信是称讃 不可思議功徳 一切諸仏 所護念経
pratīyatha yūyam idam aciṁtyaguṇa-parikīrtanaṁ sarvabuddhaparigrahaṁ nāma dharmaparyāyaṁ
そなたたちは、この不可思議な功徳の称賛、一切の仏たちのすっかりまもるところと名付けられる法門を信じなさい
pratīyatha: このように
yūyam: 汝ら
idam:この
aciṁtya:不可思議な
guṇa:功徳
parikīrtanaṁ: 称讃
sarva:一切の
buddha:仏陀
parigrahaṁ:集合
nāma:名
dharma:法
dharmaparyāyaṁ:法門
信じるというのは手順ではない。心の問題と言える。
かの仏国土に生まれたいと願う衆生、善男子善女人というのは、浄土世界にすでにいる人々ではなく、
そう願った人は即浄土に生まれた。そう願う人は即浄土に生まれる。そう願うであろう人は即浄土に生まれるだろう
と娑婆現実の世界の我ら人間を意識して釈迦が言う。
阿弥陀経は、元々「幸あるところの美しい光景」と名づける大乗経典(sukhāvatīvyūho nāma mahāyānasūtraṁ)と
なっているが、この世的な視点だけで限界のあった不条理、死、破壊、どの時代にも存在した人間界と対比した美しい世界
そしてそこへの橋渡しが、ここにお経に触れられているという意味は、答えの出せない者への救いかもしれない。
救いになるかどうかは、人間側の問題でしかない。
2.尚ひとつの生涯だけ迷いの世に繋がれた者たち
浄土にて生命をもつ無数の存在があり、彼らは清らかな求道者であり悟りを求める心から退くことがないという。
又舎利弗 極楽国土 衆生生者、皆是阿鞞跋致 其中多有 一生補処 其数甚多 非是算数 所能知之。
また舎利弗よ、極楽国土の衆生と生まるる者は、みなこれ阿鞞跋致(不退転)なり。
その中に、多く一生補処あり、その数はなはだ多し。これ算数の能くこれを知るところにあらず。
漢文にある「一生補処」とは何か。玄奘訳では「一生所繋(しょけ)」となっている。
一生補処は、かなりなキーワードで、「菩薩の最高位にして、その一生だけ繋縛されるだけで、
次生には仏の位処を補うことができるところの等覚の位をいう」(「浄土三部経(下)」中村元他著 岩波文庫P173)
サンスクリットでは、
"एकजातिप्रतिबद्धाः" (ekajātipratibaddhāḥ) :尚ひとつの生涯だけ迷いの世に繋がれた者
"एकजाति" (ekajāti):同種の
"प्रतिबद्धाः" (pratibaddhāḥ) :繋がった
つまり、一生補処と漢訳されたオリジナルの意味は「一体となった菩薩が同じ品格を共有する」となり「正定聚」を意味する。
鳩摩羅什や玄奘が漢訳するとき、多くの菩薩の中には(阿弥陀仏の弟子である)一生補処のエリートが一部いて、
衆生が往生した者たちは不退転の者たちとして区別しているが、
サンスクリットやチベット訳では、「不退転の者」=「一生補処」と同一視している。(同、中村元)
親鸞はむしろサンスクリット原本の解釈をとっており、漢文の阿弥陀経を読みつつ、
オリジナルのコンテキストを読み解いているのは、現世正定聚を思いつきで言っているのではなく、
確たる根拠から構築された法体系によると思わざるを得ない。
ただ、個人的に思うのは、異世界にいる膨大な数の純粋な存在が、この世界との繋がりをもつということは、
完全な浄土世界だけあればよく、この世などなくなっても良いではないかということにはなっておらず、
この世というのは、何か意味があって存在する、何かの役割として何万年以上も機能していると示唆されている気がする。
なぜ苦しみのない世界から、たとえ一度なりとも、この苦難に満ちた世界に生身を纏って戻ってこなければならないか。
いやそれ修行だから、この世を浄土化したいから、とかで片付けられることなのか。そういう軽い話ではないと思う。
数十年の苦難の人生を卒業して、仏として浄土に生まれ苦しみのない世界での生活が保証される、それは結構なことなのだが、
そこでの真の存在となったときどういう状態なのかというのは、それ程単純な表現にできることではないのだろう。
この世の認識からしてみたら、無であり、空であり、零である世界というのは、やはり言語化するには無理がある。
3.仏法僧ということ
阿弥陀経には三宝を記述したところが二箇所ある。
其土衆生、聞是音已、皆悉念仏念法念僧
その土の衆生、この音を聞き已りて、みなことごとく仏を念じ、法を念じ、僧を念ず
tatra teṣāṁ manuṣyāṇāṁ taṁ śabdaṁ śrutvā buddhamanasikāra utpadyate dharmamanasikāra utpadyate saṁghamanasikāra utpadyate
その声を聞いて、かの世界の人々は、仏を心にとどめる思いを生じ、法を心にとどめる思いを生じ、集いを心にとどめる思いを生じる。
聞是音者、皆自然生 念仏念法念僧之心
この音を聞く者、みな自然に念仏・念法・念僧の心を生ず
tatra teṣāṁ manuṣyāṇāṁ taṁ śabdaṁ śrutvā buddhānusmṛtiḥ kāye saṁtiṣṭhati dharmānusmṛtiḥ kāye saṁtiṣṭhati saṁghānusmṛtiḥ kāye saṁtiṣṭhati
その音を聞いて、身に仏を念ずる心が起こり、身に法を念ずる心が起こり、身につどいを念ずる心が起こる。
一般的には、Sanghaは集団を意味し、つとに僧侶の集団、時に信徒の集団を含めてサンガと言われる。
阿弥陀経の浄土観で出てくるsaṁghāというのは、娑婆(sahā)にある現実界の僧職の人間でも教団でもない。
浄土に存在する無数の者たち、そして阿弥陀経では彼らが仏法僧を念じ、娑婆の人生が終わって出会える多くの存在、ということになる。
仏法僧というこの「僧」の部分が、この人間世界の僧侶ということを阿弥陀経では言っていない。
ブッダムシャラナムガッチャーミ
ダーマムシャラナムガッチャーミ
サンガムシャラナムガッチャーミ
と念ずるとき、仏、法、そして浄土で倶会一処になるであろう存在、ということになるのであろうか。
当たり前と言えば、当たり前だが、釈迦が阿弥陀の世界を説法しているときに、
地上の教団の話をしているとは考えにくい。漢字になって仕舞えば「僧」なのだが本来は「つどい」なのだ。
この辺り根本経典のコンテキストに触れてゆけばまた違った世界が見えてくる。
4.無量寿の仏の世界に生命をもつ
釈迦は浄土のの情景を描写するにあたって、そこに生まれたいと願うことが大切と説く。
一方で、少々厳しい言葉を添えている。善行をしたら浄土に行けるのかへの答えがここにある。
不可以少善根 福徳因縁 得生彼国
少善根福徳の因縁をもって、かの国に生まるることを得べからず
サンスクリットでの記述は、
nāvaramātrakeṇa śāriputra kuśalamūlenāmitāyuṣas tathāgatasya buddhakṣetre sattvā upapadyaṁte
生ける者どもは僅かばかりの善行によって、無量寿如来の仏国土に生まれることはできない
nāvaramātrakeṇa kuśalamūlenā:僅かな善の根本によって
amitāyuṣas:無量寿
tathāgatasya:仏、如来
buddhakṣetre:仏国土
sattvā:感覚のある存在(=衆生)
upapadyaṁte:生まれる
つまり、この世でいいことを少々したところで浄土に行くことはままならない、と伝統的な否定としての解釈がある。
これまでの解説本には、まさにこの通りで、反論してもしょうがないが、
前文があるので、これを含めて翻訳を試みると、
yatra hi nāma tathārūpaiḥ satpuruṣaiḥ saha samavadhānaṁ bhavati
その世界では、まさに人々の真の存在が調和の中で一つとなり、
nāvaramātrakeṇa śāriputra kuśalamūlenāmitāyuṣas tathāgatasya buddhakṣetre sattvā upapadyaṁte
シャーリプトラよ、それらの存在は、善の根本をもつ無量寿の仏の世界に生命を持つのだ。
と肯定に読み取れるのではないか、と考える。
satpuruṣaiḥ:Sat(真実)+ Puruṣaiḥ(存在・複数形)真実の存在
saha samavadhānaṁ bhavati:ともに一つになる
saha:一緒に
samavadhānaṁ:集中する
bhavati:なってゆく
nāvaramātrakeṇa:純粋にこれだけ(僅かにという意味ではなく)
専門研究をしている先達の解釈の方が正しいであろうが、単純にサンスクリットの翻訳をした時に、
かなり違った解釈が成り立つように思える。
5.仏教が釈迦教ではない理由
仏教が、仏教である所以。それは釈迦以前にも多くの仏が存在したことに由来する。
釈迦は仏教の開祖とされているし、釈迦以前に仏教はなかった。
しかし釈迦はあらゆる経典において無数の諸仏の存在を示唆している。
それら諸仏を含めた物語が仏教の根底にあるから、釈迦教ではないと言える。
釈迦自らの言葉として記録された仏説とされる阿弥陀経もまたそれら諸仏の名を挙げている。
東方、南方、西方、北方、下方、上方、あくまで比喩的な空間表現に取れるが、
東方亦有 阿閦鞞仏 須弥相仏 大須弥仏 須弥光仏 妙音仏、如是等 恒河沙数諸仏
pūrvasyāṁ diśy akṣobhyo nāma tathāgato merudhvajo nāma tathāgato mahāmerur nāma tathāgato meruprabhāso nāma tathāgato
maṁjudhvajo nāma tathāgata evaṁpramukhāḥ
東方にまた、アクショービャ、マハーメール、メールドバジャ、メールプラバーサ、マンジュドバジャ、かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして
南方世界、有日月燈仏 名聞光仏 大焰肩仏 須弥燈仏 無量精進仏、如是等 恒河沙数諸仏
dakṣiṇasyāṁ diśi caṁdrasūryapradīpo nāma tathāgato yaśaḥprabho nāma tathāgato mahārciskaṁdho nāma tathāgato merupradīpo nāma tathāgato 'naṁtavīryo nāma tathāgata evaṁpramukhāḥ
南方の世界に、チャンドラスーリャプラディーパ、ヤショープラバ、マハールチスカンダ、メールプラディーパ、アナンタヴィーリャ、かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして
西方世界、有無量寿仏 無量相仏 無量幢仏 大光仏 大明仏 宝相仏 浄光仏、如是等 恒河沙数諸仏
paścimāyāṁ diśy amitāyur nāma tathāgato 'mitaskaṁdho nāma tathāgato 'mitadhvajo nāma tathāgato mahāprabho nāma tathāgato mahāratnaketur nāma tathāgataḥ śuddharaśmiprabho nāma tathāgata evaṁpramukhāḥ
西方の世界に、アミターユス、アミタスカンダ、アミタドバジャ、マハープラバ、マハーラトナケートゥ、シュッダラシュミプラバ、かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして
北方世界、有焰肩仏 最勝音仏 難沮仏 日生仏 網明仏 如是等 恒河沙数諸仏
uttarāyāṁ diśi mahārciskaṁdho nāma tathāgato vaiśvānaranirghoṣo nāma tathāgato duṁdubhisvaranirghoṣo nāma tathāgato duṣpradharṣo nāma tathāgata ādityasaṁbhavo nāma tathāgato jaleniprabho nāma tathāgataḥ prabhākaro nāma tathāgata evaṁpramukhā
北方の世界に、マハールチシュカンダ、ヴァイシヴァーナラゴーシャ、ドゥンドゥビスヴァラニルゴーシャ、ドゥシプラダルシャ、アーディティヤサンバヴァ、ジャーリニープラバ、プラバーカラ、かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして
下方世界、有師子仏 名聞仏 名光仏 達摩仏 法幢仏 持法仏、如是等 恒河沙数諸仏
adhastāyāṁ diśi siṁho nāma tathāgato yaśo nāma tathāgato yaśaḥprabhāso nāma tathāgato dharmo nāma tathāgato dharmadharo
nāma tathāgato dharmadhvajo nāma tathāgata evaṁpramukhāḥ
下方の世界に、シンハ、ヤシャス、ヤシャハプラバーサ、ダルマ、ダルマダラ、ダルマドヴァジャ、かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして
上方世界、有梵音仏 宿王仏 香上仏 香光仏 大焰肩仏 雑色宝華厳身仏 娑羅樹王仏 宝華徳仏 見一切義仏 如須弥山仏、如是等 恒河沙数諸仏
upariṣṭhāyāṁ diśi brahmaghoṣo nāma tathāgato nakṣatrarājo nāma tathāgata iṁdraketudhvajarājo nāma tathāgato gaṁdhottamo nāma tathāgato gaṁdhaprabhāso nāma tathāgato mahārciskaṁdho nāma tathāgato ratnakusumasaṁpuṣpitagātro nāma tathāgataḥ sāleṁdrarājo nāma tathāgato ratnotpalaśrīr nāma tathāgataḥ sarvārthadarśo nāma tathāgataḥ sumerukalpo nāma tathāgata evaṁpramukhāḥ
上方の世界に、ブラフマゴーシャ、ナクシャトララージャ、インドラケートゥドヴァジャラージャ、ガンドゥーツタマ、ガンダプラバーサ、マハールチスカンダ、ラトナクスマサンプシピタガートラ、サーレーンドララードャ、ラトノートパラシュリー、サルヴァールタダルシャ、スメールカルパ、かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして
と、判で押したように同じ構文で仏の名前が挙げられる。
阿弥陀経を読誦する人は、かなり早い段階で、大焰肩仏が南方世界と上方世界に重複して現れていることに気づく。
さらにサンスクリットと漢文を比較すると、幾つか符合しない仏がいることにも気づく。
西方世界の大明仏はサンスクリット文には登場しない。
逆に北方世界の仏として、ドゥンドゥビスヴァラニルゴーシャ(その音声が太鼓の響きの如き者)はチベット訳に登場していないためか漢文にはない。玄奘訳には「無量天鼓震大妙音如来」として登場する。更にはプラバーカラ(光を放つ者)という仏も漢文には出てこない。
上方世界でも、インドラケートゥドヴァジャラージャ(帝釈天の幢幡の王)という仏が漢文には出てこない。
鳩摩羅什の参照した原本はチベット訳を参照したためか、オリジナルに相違があるのを継承した感がある。
面白いのは、これらの諸仏はあらゆる経典でそれぞれの関係が説かれており、
諸仏がただそこにいるだけということでもない、また壮大な物語があるらしい。
西方世界の無量寿仏は、阿弥陀仏であり、如来になる前の法蔵菩薩の時に師事した世自在王仏は、
東方世界に出てくる阿閦鞞仏のことであり、さらに阿閦鞞仏は大日如来に師事したという説もある。
「小品般若経」には、乾陀訶提菩薩(香象菩薩)も阿閦鞞仏の下で修行をしているとされる。
維摩経に出てくる維摩居士は阿閦鞞仏の世界から来たのだと釈迦が言ったとか、
膨大な経典には、諸仏の宇宙規模の物語が説かれていて、これをして仏教の骨格が出来上がっているならば
確かに釈迦教というレベルのものではないと言える。
親鸞はちなみに、自分は釈迦および諸仏の弟子と記しており、これは流石に達観していると唸らされる。
6.異次元を往来する存在たち
浄土の光景を描写する釈迦の説法の中で、
修飾的な表現ではなく、そこにいる住人の生活とも取れる一節があり極めて不思議な情景がある。
其国衆生 常以清旦 各以衣裓 盛衆妙華 供養他方 十万億仏 即以食時 還到本国 飯食経行
その国の衆生、常に清旦をもって、おのおの衣裓をもって、もろもろの妙華を盛れて、他方の十万億の仏を供養したてまつる。
すなわち食時をもって、本国に還り到りて、飯食し経行す。
イメージはつかなくもない。そういうものですかで素通りしてもいいかも知れないが、一体これは何を言っているのか。
「浄土三部経(下)岩波文庫」でのサンスクリットから直接翻訳を試みた解説では、こうある。
かの世界に生まれた生ける者どもは、ひとたび朝食前の時間に他の諸々の世界に行って、百千億の仏たちを礼拝し、一々の如来の上に百千億の花の雨を降らして、元通り昼の休憩のためにかの世界に帰って来る。
サンスクリットではその部分はどうあるか。
tatra ye sattvā upapannās ta ekena purobhaktena koṭiśatasahasraṁ buddhānāṁ vaṁdaṁty anyāṁl lokadhātūn gatvā /
ekaikaṁ ca tathāgataṁ koṭiśatasahasrābhiḥ puṣpavṛṣṭibhir abhyavakīrya punar api tām eva lokadhātum āgacchaṁti divāvihārāya /
tatra ye sattvā upapannās:そこで存在となった(生まれ変わった)者
tatra:その場所
sattvā:生きるもの、存在
upapannās:出生した
Koṭiśatasahasraṁ:百千億の(Koṭi=1千万、 Śata=百、Sahasra=千" )
vaṁdaṁty anyāṁl lokadhātūn gatvā:他の世界へ行き諸仏を礼賛する
vaṁdaṁty:礼賛する
anyāṁl:他の
lokadhātūn:世界、領域
gatvā:行った
おそらくは人間生活の時間感覚ではないのであろう。朝食とか昼食とか想像には難がある。
ただこれは現代人ならSFの異次元空間との行き来を想像してしまうような描写と言える。
その住人とやらは、人間なのかというのも愚問に尽きる。生身の人間であろうはずがない。
ここから先は勝手な解釈ばかりとなってしまうが、不思議な光景と思える。
7.調和の中にある厳然と継がれる系統
阿弥陀経にある七宝の池に咲く蓮の花の描写。
青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光(鳩摩羅什訳)
nīlāni nīlavarṇāni nīlanirbhāsāni nīlanidarśanāni <青>
pītāni pītavarṇāni pītanirbhāsāni pītanidarśanāni<黄>
lohitāni lohitavarṇāni lohitanirbhāsāni lohitanidarśanāni <赤>
avadātāny avadātavarṇāny avadātanirbhāsāny avadātanidarśanāni<表現できない色>
citrāṇi citravarṇāni citranirbhāsāni citranidarśanāni<色とりどり>
とある。サンスクリットをそのまま解釈すると、
青のもの、青い色を持っており、青く輝き、青の形に顕現する
黄のもの、黄色を持っており、黄色に輝き、黄色の形に顕現する
赤のもの、赤い色を持っており、赤く輝き、赤の形に顕現する
表現できない色のもの、その色を持っており、そのように輝き、その形に顕現する
多彩のもの、その色を持っており、そのように輝き、その形に顕現する
「白」を意味する「śveta」が見当たらない。
玄奘訳では「四形四顕四光四影」とされている。
かなりちがう。
色とりどりの蓮の描写という認識でも問題ないのかもしれないが、
色とか形とかいう表現ではrupamという言葉があるが、ここではそういう意味でもないらしい。
強引な解釈をするなら、青色からは黄色は生まれないという真理を言っている気もする。
色も形も違ったものたちが、七宝の池に群生共生しているということでもある。
そのような調和の中に厳然とした系統があるという、
漢文化で失われたコンテキストからはそんなふうに見て取れる。
8.極楽浄土ではなくこの世にあった光景
阿弥陀経の冒頭にあるこの光景。
如是我聞。一時仏、在舎衛国 祇樹給孤独園、与大比丘衆 千二百五十人倶。皆是大阿羅漢。衆所知識。
evaṁ mayā śrutaṁ /
ekasmin samaye bhagavāñ śrāvastyāṁ viharati sma jetavane 'nāthapiṁḍadasyārāme mahatā bhikṣusaṁghena sārdham ardhatrayodaśabhir bhikṣuśatair abhijñānābhijñātaiḥ sthavirair mahāśrāvakaiḥ sarvair arhadbhiḥ /
サンスクリット原文には、1250という数字表記がない。
どこから来たのかと、色々調べて見たら、その光景が見えてきた。
千二百五十人にあたるのは、ardhatrayodaśabhir =十三の僧団がそれぞれ百人づつ、ただし一つはその半ば。
つまり13x10-50=1,250人ということらしい。
ardha=a half(ひとつだけ半分)、 trayoda=13の僧団x100人
この描写は、「大きな僧侶の一団とともに、1250人の僧侶、規定を超越した者、修行者、偉大な弟子たち、尊者たち、すべての者たちと共におられり」となる。
bhikṣusaṁghena:僧団
sārdham: 共に
bhikṣuśatair: 100人の僧
abhijñānābhijñātaiḥ:知識を持つ者
mahāśrāvakaiḥ: 偉大な弟子(disciples)
sthavirair: 尊者(venerable ones)
sarvair: 全ての者
arhadbhiḥ:阿羅漢
鳩摩羅什の知識が煌めいた訳なのだと感心すると同時に、
僧団というのを暗示しているこの文章が漢文で消えてしまった。
百人を束ねる僧団が組織されていた、そこにはリーダーがいた、お互いに連絡を取り合って
釈迦の元に集うことがよくあった。という光景が読み取れる。
そこには1,250人だけではない、ほか多くの比丘、菩薩たちが祇園にいたということになる。
それだけの大人数を前に、極楽の描写、広く世界に偏在する如来の話をしてゆくというのは、
どういった基礎概念を共有していたのかと、想像させられる。