カズヒロ
日々思ったこと感じたことを書き残します。
記憶の中の風景を残します。
福岡市に引っ越してきて四年が経過しました。「福岡は住みやすい街」という記事をネットでたまに見掛けますが本当にそうでしょうか。東京に28年間住んでいたボクにとってはとても不便で住みにくいのです。 住みにくさを一番感じるのは交通インフラがとても貧弱なことです。鉄道はJRと私鉄(西鉄)と福岡市地下鉄(3路線)しかありません。行きたい場所の徒歩圏内に最寄駅がないことが多いので自動車で行くしかないことが多く必然的に自動車に依存するしかない生活になってしまいます。 自動車に依存するこ
富士登山の死亡事故ニュースを目にするたびに残念な気持ちになります。人数制限したり有料にしたりして改善されるはずではなかったのか?おそらく昨年よりはマシになるでしょうがそれにしても多過ぎます。 よく聞くと人数制限および有料化したのは吉田ルートだけらしく、なぜ他のルートも同じルールにしないのかと疑問に思います。山梨県はできるが静岡県はできない理由でもあるのでしょうか。 東京に住んでいた頃のボクも山に登っていました。高尾山はもちろん、北アルプスや八ヶ岳にも出かけました。登山は健
自宅で仕事をしているとき、右眼の睫毛に糸屑が着いている気がして指で軽く払った。しかし糸屑は取れない。もう一度、今度は指で睫毛を摘んでみたが糸屑は右眼の中を飛び回っている。 え、右眼の中?糸屑だと思ったものはボクの右眼の中にある。目玉をキョロキョロ動かすと糸屑のようなものが右眼の中を浮遊している。なんだこりゃ。すぐに検索。こういうときインターネットがある時代に生まれて良かったと思う。 眼の中に糸屑が飛んでいる、と入力してエンターキーを押すとヒットした。ヒブンショウ。蚊が飛ぶ
台風が近づいている。 小さい頃、台風は怖いものではなくひとつのイベントのようなものだった。 強い風が吹き、もの凄い雨が降る台風は楽しかったと記憶している。 しかしそれは巨大な台風がやってきたとき恐怖に変わった。 ボクの実家は九州北部にあり古い民家だった。 縁側の窓はまだアルミサッシではなく木枠にガラスの貧弱なものだった。 戸袋から出した雨戸ももちろん木製だった。 周囲に田んぼしかない実家の窓に強風が長時間吹き付ける。 縁側の窓は強風によりしなり今にも壊れそうになった。 母親は
九州に戻ってきて電車生活からクルマ生活に変わった。クルマ生活になると頻繁に使うのが駐車場なのだが、あのボタンを押して駐車券を取るシステムはいつになったら改善されるのだろうか。 駐車券を取る装置は運転席の窓を開けて手を伸ばすと届く位置に配置されているが、狭かったりコース作りが下手な駐車場の場合、カーブの途中にその装置があったりしてなかなか運転技術を要する。その証拠に装置にはドアミラーを擦ったと思われる傷がいっぱいある。 駐車券を受け取るためには装置にできるだけクルマを近付け
映画『花束みたいな恋をした』を観た。 麦と絹の出会いから別れまで 二十代の一瞬の恋が描かれていた。 調布周辺の風景が懐かしい。 二十代の頃のボクは慣れない東京で必死に働き 最愛のひとに出会い、小さい部屋で一緒に暮らした。 始まりは終わりの始まり。 あの頃の気持ちはあの部屋に置いてきたはずなのに 別れの朝のことを思い出すと涙が出るのはなぜだろう。
天気上々、気分上々のふたりはケーブルカー、ロープウェイ、トロリーバスなどを乗り継いで立山黒部アルペンルートを進んだ。そして立山駅から富山地方鉄道で富山駅へ行き、そこから宿泊地の金沢へバスで移動した。 マスヤさんは早くビールが飲みたくて堪らない。金沢21世紀美術館にほど近いホテルに着いた直後、マスヤさんは香林坊交差点近くにあるコンビニに駆け込み、店を出た瞬間に栓を開けた。 夕食のカニ食べ放題はツアー代金に含まれるが飲み物は別料金なのでマスヤさんは我慢した。飲み足らないと食後
安いツアーを見つけたので行きましょうと同僚のマスヤさんに誘われた。そのツアータイトルは『立山黒部アルペンルートと世界遺産白川郷』だったが、金沢と上高地もコースに含まれていた。 「ひとに誘われたらなるべく断らずその誘いに応じよう」と決めていたボクは二つ返事でOKした。立山黒部アルペンルートには過去二回行ったことがあったが、白川郷や上高地には行ったことがなかった。 マスヤさんはひとりであちこちの山に登り、青春18きっぷを駆使して安く全国各地を旅する鉄ちゃんだ。ボクも色々と旅行
1998年に転職して10年が経過した。勤続10年のご褒美として五日間の休みと旅行費用5万円が会社から支給されたのでボクは迷わず両親を旅行に連れて行った。 両親は福岡空港から飛び、羽田空港から飛んだボクと那覇空港で合流した。ゆいレールに乗り、おもろまち駅へ移動しレンタカーを借りて北へ向かう。琉球村でソーキそばを食べ、万座毛から絶景を眺め、沖縄本島最北端の辺戸岬へドライブした。 翌日は沖縄美ら海水族館に行った。駐車場には観光客のレンタカーが沢山並んでいた。ここが沖縄国際海洋博
走ったことのない10kmという距離はとても長かった。まだ終わらないのか、ゴールはまだか。ボクは懸命に走った。 倉庫街が終わり山下橋を渡る。後半のアップダウンはとても辛い。がんばれー!がんばれー!とランナーに必死に声援を送る人たちがいる。知り合いか身内の応援に来た人たちだろう。ボクはその人たちの前を通過する。 山下公園が見えた。交差点を右折すると前方にゴールがある。驚くほど多くの人たちがコースの両側から応援している。ゴールが近づくと声援が一層大きくなる。 このとき見知らぬ
ハーフマラソンに続いて10kmがスタートするのでボクは指定されたブロックに整列した。周りのランナーがみんなベテランに見える。ボクにとっての初めてのマラソン大会がいよいよ始まる。 号砲と共にランナーたちが前に進むと思いきや、後方のランナーは整列位置に止まったままだった。しばらくして前に進み走り始める。10kmのコースは山下公園をスタートし倉庫街を抜け、折り返してくる。 ボクよりかなり年上の男性ランナーや若い女性ランナーがごちゃ混ぜになって走る。周りにつられていつもより速く走
2007年11月11日、第27回横浜マラソンが開催された。会場は山下公園だったのでボクは日曜日なのに早起きして元町・中華街駅に向かった。 初めてのマラソン大会なのでボクは緊張していた。山下公園で丸ちゃんと合流すると、そこにはボクと同じ会社に勤めているという男性が二名いた。ボク以外の人はマラソン大会に参加したことがあるベテランで、横浜マラソンにも毎年参加しているようだった。 山下公園の空いたところにレジャーシートを敷いて陣地を作る。そこでTシャツにゼッケンを付けて着替える。
ある日突然、システム構築の部署からシステム運用の部署に異動になった。システム運用を担当したことはなかったが、Active Directory と Exchange Server はいくつも構築したことがあるので運用もできるだろうと思った。 しかしそんなことよりお客様が大問題だった。そのお客様は霞が関の合同庁舎にある某省庁で、ボクは週に何度も霞が関に通った。 厄介なことに某省庁のシステム担当者は頭がおかしかった。訪問しても部屋に入れてくれないことが日常茶飯事で、作業したいの
初代iPhoneが発売された2007年、カメラ付き携帯電話で写真を撮りメールに添付して送る、いわゆる写メールはすでに一般的になっていた。 1998年にホームページで書き始めた日記をボクは2004年9月以降アメーバブログ(略してアメブロ)に場所を変えて書き続けていた。ブログは専用のエディターで文章を書き、写真を貼り付けることでWebページが作成できる。HTMLを知らなくても誰でも簡単に情報発信できるため一気に普及した。 日々の出来事を書き写真を載せるというどこにでもある内容
ボクは40歳になったとき「ひとに誘われたらなるべく断らずその誘いに応じよう」と心に決めた。これまで新しいことにチャレンジする積極性がなかったボクは変わろうと思っていた。 初めてのひとり旅は北海道を車で好きなところを二泊三日で巡る旅だった。ひとり旅の良いところは自分の好きな所に行けること、悪い所は感動を共感できないことだ。 夕張を後にしてボクは富良野に向かった。ドラマ『北の国から』の大ファンであるボクは「拾って来た家」が見たいと思っていた。麓郷の森、石の家、くまげらには前回
北海道に引っ越した元同僚が遊びに来て下さいと言うのでお言葉に甘えて夏休みに遊びに行くことにした。ひとりで旅行に行くのはこれが初めてだった。 レンタカーを借りると言うと、私の車を貸しますと言う。車を借りて何かあるといけないからと断ったが遠慮しなくていいと押し切られた。道の駅のスタンプを集めてきて欲しいと元同僚は言った。交換条件があったが、お安い御用だ。 2007年8月14日11:00頃、新千歳空港に着陸したボクは小樽行きの快速エアポート115号に乗り札幌駅へ移動した。車窓か