地域で本をつくる⑧「加東市を巡るツアー第二弾(昭和池と鴨川ダム)」
地域のみんなで本をつくるとは、いったいどういうことなのか?
どんな内容にすれば、地域の人たちだけでなく、地域外の人たちも楽しめる一冊に仕上げることができるのか?
発起人の私自身が悶々としながら「ジモトブックス」の企画を進めるなか、小学校時代の恩師のK先生が「まずは地域を巡ってみませんか?」と提案してくださった。
そこで実現した第一弾ツアーがこちら。
K先生の案内のもと、「河岸段丘(かがんだんきゅう)」と呼ばれる加東市ならではの階段状の地形を辿りながら、農地に水を引き入れる水利(=東条川疎水)のしくみを見て回った。
その結果、感じたことを私は次のようにまとめている。
この第一弾ツアーは、水利全体のおもに後半部分の見学だった。では前半部分はどうなっているのか? そこでK先生が新たに企画してくださったのが第二弾「昭和池と鴨川ダム見学ツアー」だ。
この第二弾ツアーは、水路網の起点を巡る見学になったのと同時に、壮大な水利のしくみをつくり出した「先人の思いの発端」を辿る旅にもなった。
昭和池と鴨川ダム
第二弾ツアーの開催日は2024年1月27日。参加者は、
・K先生
・公務員のFさん
・やしろ国際学習塾のMさん
・主婦でアーティストのMさん
・兵庫教育大学附属図書館のNさんとYさん
・社高校生活科学科2年生のOさんとSさん
・小野市の小学校教員Kさん
・スタブロブックス高橋
・お子さん3名
・神谷山持明院 副住職 ※ツアーの最後から企画会議にご参加
の総勢14名。
昭和池と鴨川ダムは、延長100キロに及ぶ水路網に水を供給する〝メイン水源〟の役割を果たしている。場所はいずれも加東市の北側にある。そこから南西に向かって階段状に下っていく河岸段丘の勾配も利用しながら3000ヘクタールを超える農地に水を送り届けていくための、いわば〝水瓶〟のような貴重な存在だ。
昭和池は1933(昭和8)年に三草山の麓に築造されたため池で、ため池としては兵庫県下最大の貯水量を誇る。1951(昭和26)年に完成した鴨川ダムは戦後初のコンクリートダムとして築造され、8380千トンもの貯水量を誇る。
この昭和池、鴨川ダムに蓄えられた水が各水路網(幹線水路、支線水路、末端水路に分類される)を通って農地に供給されていく。
ちなみに幹線水路は鴨川ダムから、支線水路は昭和池からそれぞれ引かれている。そして山沿いや山中、住宅地を縫うように下りながら田んぼやため池に通じている。低い土地から高い土地に水を引き上げる際はサイフォンと呼ばれるしくみが利用される。その代表的な場所が、第一弾ツアーで見学した「曽根サイフォン」だ。
このような水利のしくみが加東市、小野市、三木市の三市にまたがり整備されているのだ。
まるで血液を体中に送り届ける人間の血管のように地域に張り巡らされた水路網のうち、前回の第一弾ツアーではおもに末端に近い水路の部分を見て回った。
そこで今回は、水路網の二大起点となる昭和池と鴨川ダムを見学しようということで、K先生が第二弾ツアーを企画してくださったのだった。
すべては、「思い」から始まった
加東市を含む北播磨地域は雨が少なく、昭和池が築造される以前から約110個のため池(昭和池の受益地)が地元の人たちの手でつくられていた。それでも農地に必要とされる水量の3分の1ほどしか賄えず、降雨や河川水の多少に左右される農業基盤は非常に危ういものだった。
なかでも1924(大正13)年に日照りが103日も続き、地域の人たちは大干ばつに苦しむことになる。水利の研究を10年にわたり続けてきたK先生は現存する昭和池工事の書類をすべて読み通し、大正13年の大干ばつについての記述も見つけている。
この大正の大干ばつによって地元の人たちから「この地域に用水源確立を」という声があがり、1928(昭和3)年に昭和池の築造が始まったのだ。大正13年から5年の歳月を経て、地域の人たちの「思い」が結実したのだった。
この昭和池は「難工事」として地元の人たちを苦しめている。当初は大手が工事を引き受けたが、必要となる土砂や見積りについて大手と地元との間で主張がぶつかり、兵庫県が工事中止と契約解約を勧告。これによって大手が工事から手を引いてしまい、引き継いだ地元住民が自分たちの力で昭和池の工事を続ける必要に迫られたのだ。
議論の結果、地元組合長らのリーダーシップのもとに工事が再開され、いわば素人集団が県下最大の貯水量を誇るため池の築堤工事を完成させたのだった。
夏場は10時間、冬場は8時間の野外での過酷な力仕事。危険に晒されることも多く、工事に参加した7名が事故で死亡している。そのうちの1人は私(スタブロブックス高橋)の隣家の親族であると知り、遠い存在だった昭和池工事が一気に手元に引き寄せられたのだった。
昭和池と鴨川ダムを起点とする延長100キロに及ぶ水路網。その発端は、「ため池の新設で干害から逃れたい」という地元の人たちの思いだった。水路の前半を巡る旅は、人びとの思いの発露に触れる旅でもあったのだ。
天恵の地形にダムを
昭和池の成功を知った市場村(現小野市)の村長は、播州清水寺参詣の際に加東市の地形に目を奪われた。今はなき加東市の土井村の渓谷を見て、「これは天恵の地形、土井はため池になる」と閃いたのだ。
「土井をため池にすれば、旧加東郡の農地3000町歩が干害から救われる」
この村長の思いが発端となり、紆余曲折を経て築造されたのが鴨川ダムである。
当初は加東(現在の小野市を含む)、加西、加古、美嚢の4郡27町村に水を供給する大構想として計画されたが、戦争で白紙に。戦後、地方選出代議士が政府とGHQにダム建設計画の復活を幾度も陳情し、規模を縮小するかたちで鴨川ダムの計画が再開された。
1949(昭和24)年に起工し、2年後の1951(昭和26)年に完工。農水省が戦後初で手がけたコンクリートダムとして今なお歴史に刻まれる鴨川ダム。全体構想の規模は縮小されたとはいえ、加東市と小野市、三木市の一部の農地を潤す水路網の起点を担うことになった。
この鴨川ダムの完成と引き換えに土井村が湖底に沈んだ。K先生は土井村出身者にインタビューを試みている。
「ふるさと土井を離れたくない」
そんな思いを胸にしまい、土井村の人たちは「多くの人が助かるなら……」と離村を決意したのである。
加東市版ブラタモリを実現させる!?
ツアー終了後、K先生のご自宅に伺い、ジモトブックスの企画会議をおこなった。
まずスタブロブックス高橋から企画の骨子を説明した。資料の一部を公開する。
コンセプトは当初から変わらず、「ちいきでつくる地元の本」。中央=出版社主導で本づくりをするのではなく、DAO=分散型自律組織のように地域でチームを立ち上げ、そのチームで本づくりを担っていく。このプロジェクトをひとつの地域だけで完結させるのではなく、創刊号の加東市を皮切りに全国の地域に広げていく構想を描いている。
このDAOの概念は公務員のFさんが詳しく、そのあたりの知識に乏しい私はいつも教えていただいている。
具体的な内容として、私は4つの切り口を提示した。このうち企画①「まちのヒストリア ~土地を潤す水利の物語~」がK先生による第一弾・第二弾ツアーに相当する。
今回のツアーに参加し、公務員のFさんから「加東市は水利があってこそ発展したまち」「『水』がなければ加東市は別のまちになっている」「だからこそジモトブックスのコンテンツも水利の物語を核にするのが良いのでは」とアドバイスをくださった。
こうして企画①で歴史を語り、地域の成り立ちを踏まえたうえで、先人の思いのバトンを受け継いだ現世代が生み出せる次の時代の価値とは何か? という視点で地域のローカルクリエーターを紹介していく展開を検討している(企画②)。
本として面白く、他の地域の人たちが読んでも楽しめる内容にするためには、企画②で「誰を紹介するのか?」が重要になると考えている。
そのほか専門家の視点でまちを語る案(企画③)、加東市にゆかりのある人たちからストーリーを募集する案(企画④)もチームの皆さんと共有した。
以上の4つの企画のうち、①と②の展開はほぼ確定で進めていくことが決まった。
企画③については、個人的に「地形の専門家」に加東市を語ってもらうのはどうかと、会議後にふと思った。
K先生いわく、六甲山の隆起にともなって加東市(社地区)特有の階段状の地形=河岸段丘が形成されたという。その河岸段丘の勾配を利用して水利が整備され、その水利の恩恵も受けて水田が発達し、加東市は酒米の王様である山田錦の一大産地となった。
その加東市で栽培された山田錦は六甲山を超えて灘五郷(神戸市灘地区、日本最大の日本酒製造地)に運ばれ、旨い日本酒となって国内外に出荷されている。
六甲山の隆起→加東市の河岸段丘形成→水利→山田錦→六甲山→灘五郷→日本酒→国内外へ
このつながりを指摘してくれたのが、会議参加者のおひとり、やしろ国際学習塾のMさん。加東市は山田錦の産地としてすでに知られているが、そこに六甲山の隆起から河岸段丘に至る数十万~数百万年の時間軸を加えることで、加東市をより深く、より魅力的に語ることができるのではないか。そんなヒントを与えていただいた。さながら加東市版「ブラタモリ」である。
ジモトブックス、それは思いを巡らせる「展轉の書」
加えて今回は神谷山持明院の副住職もツアー後半から会議まで参加してくださった。副住職は真言宗に伝わる両部神道(御流神道)の再興に(おそらく日本で唯一)取り組まれている方。
https://twitter.com/stablobooks/status/1697545409118531963
真言宗の教えや、真言宗における神道の教えを多くの人に知ってもらうための広報手段としてキャラクターを活用し、SNSで積極的に発信されている。
https://twitter.com/kodaniinari/status/1739156570066546905
「なぜ真言宗における神仏習合の教えを広められているのですか?」と聞くと、「両部神道(御流神道)に救われたからです」と。
副住職には、ぜひともジモトブックスの誌面において「加東の地で取り組む真言宗の神道再興の歩み」についてご寄稿いただきたいと思っている。
そんな話の延長で、副住職が「回向(えこう)」について教えてくださった。回向とは、自ら積んだ功徳を他の人に回し向ける仏教のおこないをいう。お釈迦様が自ら悟った安楽を5人の弟子に語って聞かせた(=回向)のが仏教の興りとされる。
この回向の意味を一般の世界に転じることがもし許されるのなら、先人の思いを次代につないでいくこともすなわち「回向」と拡大解釈することもできやしないか。
そう考えるのが許されるのなら、ちいきでつくる地元の本=ジモトブックスとは、地域をつくり上げた先人たちの思いを継承し、今に巡らせる「展轉※(てんでん)の書」といえるかもしれない。※巡るの意
ローカル地域のいち事例が普遍的な価値をもつと信じて
ちいきでつくる地元の本。
地域で本づくりチームを立ち上げ、チームで本づくりに挑む。こうしてチームで取り組んできたからこそたどり着いた境地を記録しておくためにこのnoteを書いた。
地域のみんなでつくり上げた本が、他の地域の人たちにとっても楽しめる内容になるかどうかはわからない。
加東市という極めてローカルな地域のいち事例ではあるものの、普遍的な価値をもつと私は信じる。その土地が記憶する先人たちの思い、そしてその思いを継承した現世代が今何をおこない、どんな価値を生み出しているのか――そんなケーススタディは地域を問わず、全国各地で活動する人たちにとっても参考になるコンテンツ、ストーリーだと思うからだ。
ジモトブックスが本当に必要とされる読み物になるのかはわからないが、そう信じながらつくる。つくるしかない。もう逃げられないところまできてしまった。
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このマガジンでは、ジモトブックスシリーズを立ち上げるまでのプロセスをできる限り可視化し、みなさんと共有していきます。少しでもご興味があればフォローしていただけると嬉しいです。
「私の地元でも地域の人たちと組んで本づくりをしてみたい!」そんな熱い思いをもつ方はぜひ気軽にお声がけください。全国各地のプレーヤーの皆さんと組んで、各地の特色ある地元本を一緒につくっていけたらと願っています。