外人差別2


楽しいイジメ


オレが中学一年生の時。
クラスに一人のベトナム人がいた。
今現在、50のオレが中学一年生だった時だから、今から40年近く前の話だ。
彼はベトナムから難民として両親と共に日本にやってきたらしい。
オレはそんな彼をイジメていた。
友人に肩車をして「ベトナム攻撃隊」とか言って彼をイジメていた。
それは、楽しかった。

オレはそれから10年以上経ってから彼に会った。
それは全くの偶然だった。
オレと彼は久しぶりの再開の挨拶を交わし、彼の現況を聞いたりと、とりとめもない話をした。
オレはつい、言葉を選んで

「イジメてごめんね」と聞いてみた。
彼は苦笑いして
「うぜっ!」と言った。

なぜオレは彼をイジメたのか?
それは彼が「日本人」ではなかったからかもしれない。

では日本人とは何だろうか?

二つの「日本人」

近年、日本に帰化する外人さんが増えている。

例えば、アメリカ国籍の白人が日本に帰化したとする。

彼は晴れて日本人になれたと喜ぶかもしれない。
しかし、日本人は彼を「日本人」とは思わないだろう。

何故か?

それは日本に帰化し、日本国籍を取得した彼が思う「日本人」と、日本人が思う「日本人」が違うからだ。

おそらく彼は日本国籍を取得し日本に帰化した事で「日本人」になれたと思うだろう。
しかし多くの日本人、というよりもほぼ全ての日本人は彼を日本人とは思わないだろう。

それはなぜか?

ほぼすべての日本人は「日本人」という定義を考えたことが無いからだ。

アメリカのような多人種多民族国家では「アメリカ人」という定義が非常に重要となるだろう。
そしてそれは多くの場合「国籍」を指すだろう。

アメリカの様な多人種、多民族国家では見た目で個々のステータスや立ち位置を見極めることが困難だ。
だから「国籍」が非常に重要な指標になる。
その見た目が白人でも黒人でも、アジア系でもラテン系でも「アメリカ国籍」を持つか否かが重要な指標となる。
肌の色や産まれのルーツのその次になるだろう。
つまり「日系アメリカ人」とか「アフリカ系アメリカ人」と言う風に。

対して日本はどうか?
日本は単一民族の島国国家だ。

単一民族の考える「日本人」

「国籍」という概念が生まれる千年以上前から同じ人種で似たような価値観を持つ同じ人達の中で暮らしてきた。

そういう環境では「日本人とは?」という疑問を持つことさえない。
同じ人種と同じ価値観を持つ人々だけで暮らしてきたので「国籍」という概念も頭に浮かぶことがない。

そんな日本人に「日本人」とは?と聞いてみてもあまり意味はない。
おそらく咄嗟に「国籍」と答える人はいるだろうがそれは本意ではないはずだ。
何故なら今まで「日本人」とは何か?などと考えたことが無いからだ。
反射的に答えたに過ぎない。

その人が本当に「日本人」とは国籍で判断される。と思っていたら、常日頃から相手の国籍を気にするはずだ。
だがそんな日本人いないと言っていい。
いたとしてもきわめて少数派だ。

「日本人」とは?と聞かれ「アイデンティティ」とか「日本で暮らしてきたか否か」と答える人もいるだろう。
いいかえればそれは「血」だ。血統としての、血筋としての「日本人」と言うわけだ。
端的に言えば「見た目」だ。
だがそれでは韓国人や中国人、それに台湾人を「日本人」と区別することは難しい。

そう、日本人は明確に「日本人」を定義できないのだ。
これは仕方がないだろう。日本人は千年以上の長い間、単一民族として暮らしてきて、今もそれが続いているのだから。

「日本人」とは思わない

だからアメリカ人の彼が日本人に「日本人」と思われることはない。
せいぜいが「日本に帰化した元アメリカ人」と言ったところだろう。
彼はどこまで行っても、どれだけ日本に長く住んだとしても「元アメリカ人」でしかないし、残念な事ではあるが彼の子供もまた「元アメリカ人の子供」にしかなれない。

だがこれは元アメリカ人の彼を部外者扱いしているわけではない。
日本人は「日本人」と言う定義を考えたことが無いからに過ぎないのだ。
日本人と「認めない」わけではないのだ。
ただ日本人とは「思わない」だけだ。

言ってみれば日本人は見た目で「日本人」か否かを判断する。(前述のようにそれは必ずしも正しくはないが)
それは「国籍」で何人かを判断する欧米の考え方からすると真逆の考え方だろう。

だがそれは仕方がないと思って欲しい。
「日本に帰化した元アメリカ人」の彼を疎外しているわけではないのだ。

ルールと空気

日本人は「日本人」を見た目、血で漠然と判断する。
2021年にアメリカで眞鍋淑郎氏がノーベル賞を受賞した。

彼は数十年前にアメリカ国籍を取得したれっきとしたアメリカ人だった。
だから本来ならば彼は「シュクロウ・マナベ」と表記されるべきところを「真鍋淑郎」と報道された。
日本のマスコミはまるで日本人の偉業がまた一つ増えたとでも言いたげに報道した。
だがマナベ氏は記者会見で言った。

日本人は調和を重んじる。イエスがイエスを意味せず、常に相手を傷つけないよう、周りがどう考えるかを気にする。

これはまさに単一民族の考え方だ。
同じ人種で似たような価値観に囲まれ生きてきた「日本人」の考え方だ。
この考え方が悪いと言っているわけではない。

多人種多民族国家のアメリカでは「調和」とはルールだ。
全く違う価値観を持つ人々が生活を同じくするためには明確で絶対的な「ルール」が必要で、全ての人がその「ルール」のもとで生活する。
血が何人であったとしても、全く異なる価値観を有していたとしても「アメリカ人」として生きていくのならば「アメリカのルール」に則って生活しなければならない。
オレは日系アメリカ人だからとか、オレはアフリカ系アメリカ人だからと言った自分勝手な行動は許されない。
ルーツがどこにあって、どんな血を引いていても、どんな価値観を持っていたとしても「アメリカのルール」に従う必要がある。

だが日本にはそれがない。
「ルール」より、まず似たような価値観を持っていることが前提になっているからだ。
言い換えるとソレは空気だ。日本では「調和」とは空気なのだ。

日本では全員が似たような価値観を持っているという事が前提になっているため「ルール」が曖昧であることが多い。

苦労する外国人たち

例えば冒頭のベトナム人のフルネームは「グェン・ティ・キム・ウォン」だ。
彼は何かに署名を求められるたびに「苗字」と「名前」しかない記述欄に困惑すると言っていた。
どう書けばいいのか?と尋ねても係員も困惑するらしい。
彼は困惑し、困惑する係員にまた困惑する。
さらに言えば日本の印鑑制度だ。
ベトナム人の彼はまだいいが、近年東京の湾岸地域で増えているインド系の人々や埼玉で増えているクルド系などカタカナ表記では非常に長い名前になってしまう。

どうすればよいのかと聞いてもその答えを知る日本人は少ない。いや、いないと言っていいだろう。
都道府県、市区町村でその扱い方が異なるし、銀行などでもまたそれぞれで異なる。

移民政策を謳うのならまずこういったところを即座に改めるべきであるはずだがそう言った政策は考えられてすらいない。

それは日本が単一民族国家だからだ。
セカンドネームなどなく、誰もが漢字の名前を持っているという事が当たり前だからだ。

日本語お上手ですね

外人さんが考える「日本人」と、日本人が考える「日本人」は違うわけではないのだ。
日本人は「日本人」とは何かと考えたことが無いのだ。
それは違うわけでもなければ、真逆ですらない。
「無い」のだ。

だがそれは「日本に帰化した元アメリカ人」の彼を日本人と認めないという事ではないのだ。
日本人は彼を「日本人」と認める根拠を持ったことも、考えたこともないだけなのだ。

日本人は彼を「日本に帰化した元アメリカ人」と思っていたとしても「お前は日本人じゃない!」と疎外しようとしているわけではない。
「日本人」と言う定義を持ったことが無い、考えたことが無いだけなのだ。

そして彼は死ぬまで言われるだろう。
「日本語お上手ですね」と。
それどころか彼の子供、孫までも言われ続けるかもしれない。
「日本語お上手ですね」と。

これもまた仕方がないと言わざるを得ない。

仮にアメリカでアジア系に対し「英語上手いな」などと言ったらヘイトと受け止められるだろう。
アメリカにいるアジア系がアメリカ国籍ではない可能性は低いからだ。

だが日本にいる白人が日本国籍を持ち日本語が堪能である可能性はもっと低い。その可能性は1%以下だ。
だから日本人は明らかに「血」の違う人を見れば日本語は出来ないだろうと言う前提で対応する。

目の青い女性が困っていれば「may i help you?」と声をかけるし、鼻の高い男性が困っているようなら「Do you need a help?」と声をかける。

日本人は潜在的に彼らが日本語を話せないだろうと言う前提で声をかける。
それは当然だ。
彼らが日本語を話せる可能性は1%以下だからだ。

そしてもし、そんな彼らが流暢な日本語を話したら日本人は驚き感嘆して「日本語お上手ですね」と言うだろう。

日本人には彼らが困っている旅行客なのか、日本語を覚え日本に住み日本に帰化した「元外人さん」なのかは区別がつかないし、付けようともしない。
言い換えればそんな時にまず国籍を確認しようと思う日本人はいない。
まず「外人さん」として対応しようとするだろう。

重ねて言うがそれは「お前は日本人じゃない」というつもりではない。
単に確率の問題だ。
わざわざ1%の確率を考え国籍を聞いたりはしない。
多くの日本人は99%の確率の下で行動しているだけの話だ。

日本語に喜ぶ日本人

それでも、なぜわざわざ「日本語がお上手ですね」と言うのか?と思うかもしれない。
それもまた仕方がないと言わざるを得ない。
アメリカでアジア系が、アフリカ系がアラブ系が世界共通言語である英語を話せたとしても当然だと受け止められるだろう。
英語を話せたからと言って誰一人、驚きもしなければ、感心することもない。

だが日本語はそうではない。
数十億もの人々が共通言語として身に着けている英語と違い、日本語はたった1億人の日本人だけが使うマイナーな言語だ。

だから日本語を話すことが出来る「外人さん」に感激し「日本語お上手ですね」と言うのだ。
「こんにちは」「ありがとう」しか言えない外人さんであっても喜ぶのだ。

日本に帰化した彼と、日本で生まれた彼の子供たちはそう言われることに疎外感を感じるかもしれない。
だがそれは、極東の島国でしか通用しない言葉をわざわざ覚えてくれたことをただ喜んでいるだけだ。
日本語は黄色い肌を持つ日本人だけが使っていい言語だといっているわけではないのだ。

少なくとも「元アメリカ人」の彼らが属するコミュニティの中では、日本語を話し日本に帰化している彼らは「日本人」として認められ、その帰属を尊重されるだろう。
それがなければ大きな問題にはなるが。

グローバル化は欧米化に過ぎない

日本はもっとグローバル化すべきだという意見もある。
だがそれは難しいと言わざるを得ない。

そもそもグローバル化とは何か?と考えてみた時にまず第一に頭に浮かぶのは経済的な問題だろう。

日本はその点に於いては既に達成しているだろう。
ソニーやトヨタと言った日本企業が世界レベルで活躍し、アマゾンやグーグルと言ったGAFAと呼ばれる超世界的企業は日本に浸透している。

だが社会的にみると日本はグローバル化に遅れていると言われる。
では社会的グローバル化とは何かと考えると、それは結局のところ「欧米化」に過ぎない場合が多い。

G5を立ち上げた一国であり、今もG7に名を連ねる日本ではあるが、日本はG7唯一の単一民族国家だ。
もっと言えば先進国の中で唯一の単一民族国家であり、世界的に見ても稀有な島国国家だ。

経済的にはグローバル化を受け入れているくせに社会的には受け入れないというのは自分勝手な行動だと思われるかもしれないし、実際にそうなのかもしれない。

日本は先進国の中で最も難民を受け入れない国だと言われることもある。
だが日本は、命がけで砂漠を渡ってくるメキシコ人がやってくるアメリカや、粗末なボートで北アフリカから地中海を渡ってくるヨーロッパとは違う。
日本は海に囲まれた島国なのだ。

最近話題となっている埼玉のクルド人。
彼らはジャンボジェットに乗り観光ビザでトルコから来日し、私は難民だと窮状を訴える。
彼らがトルコで迫害されたきた難民なのかどうかは私には分からないが、テレビに出て窮状を訴える自称難民がBMWに乗りヨットに乗りバカンスを楽しんでいると知ると、ほとんどの日本人はそれが稀な例であると分かってはいても、進んで彼らを受け入れようとはしなくなる。

アメリカでアジア系に対し「英語上手いな」と言うのがヘイトになるから、日本でも白人に対し「日本語お上手ですね」と言うのはヘイトになると言うのが社会的グローバル化であるとするのならば多くの日本人はグローバル化を受け入れないだろう。

それは日本人が千年間、と言っては大げさだが、数十年同じ血の中で、同じ価値観を持つ人々の中で生きてきた個々の価値観を今すぐに砕いて捨てろと言うに等しいからだ。

私が個人的に考える社会的グローバル化とは「郷に入りては郷に従え」だ。
世界的な共通認識を持つことは大事だが、各国の文化、社会性を尊重することもまた大事だと考える。
確かにこの線引きは非常にあいまいになるだろう。一本の線で簡単に引けるものではないし、個々でそのラインの引かれる部分は異なるだろう。
多くの、と言うよりほとんどの日本人はまだその線を引く準備すら出来ていない。
言い換えれば、キッチリと線を引いて他者を疎外する準備すらできていないという事だ。

外人さん

「外人さん」
この言葉に疎外感を感じる人もいるだろう。
「外人」とは「日本人以外の人」と言う意味だと感じるのだろう。
ある意味それは正しい。
「外人」とは「日本人以外の人」を指す言葉だ。
だがその意味は違う。
「外人」とは「海外から来た人」と言う意味だ。

日本人は島国で単一民族国家だ。
千年以上そうして暮らしてきた。
国家と言う概念が生まれた瞬間に、その二本の足で国外に行けたヨーロッパと違い、島国日本のどこに立っても、どこを見ても海しか見えない。

日本人は他の国に旅行することを国外旅行とは言わずに「海外旅行」と言う。
そう「海の外」だ。
日本人が「海外」旅行に行けるようになったのはほんの60年前の話だ。
だがそれも稀な話で本当の意味で日本人の庶民が「海外旅行」に行けるようになったのはほんの30年前、バブル期が訪れた以降の話だ。

日本と言う国に住む日本人にとって日本以外の国は千年の間「海外」であり、遠い海の向こうにある憧れだったのだ。
日本人にとって「外人」とは「日本人以外の人」を指す言葉ではあるが、その意味は「海外の人」という意味だ。

日本人で「外人」という言葉を日本人以外の人というニュアンスで使っている人は少ないとお申込。
多くは海外から来た人という意味で使っていると思う。そして、そういった人は外人さんと敬称をつけて使う人が多い。
「遥か海の彼方からやってきた人」という意味だ。
だから多くの日本人は「外人さん」と敬称である「さん」を付ける。
かつての日本では輸入品を「舶来品」と呼び海外から来たというだけで珍重した。
「国外品」いや「海外」から来た品物と言うだけで持て囃したのだ。
だから日本人は遥か彼方からやってきてくれた「外人さん」をもてなすし、こんな小さな島国でしか通用しない言葉を覚えてくれた「外人さん」に感動して
「日本語お上手ですね」と言うのだ。
そこに「お前は日本人ではない」とか「日本語を口にするな」という差別はない。一切ないはずだ。

逆に、英語などろくに話せない日本人の私が「オリエンタル」という言葉はなんか差別されている気がするから使うのを止めろと言ったら、外人さんたちはどう思うだろうか?
使うのを止めてくれるだろうか。

区別と差別の境界線

最後に「元外人さん」にヘイトをぶつける人たちについて言おう。
彼らの多くは自分が日本人であることに誇りを持っている。
だがその誇りは少しばかり歪んでいるのだろう。

彼らは「日本スゴイ」→「オレは日本人」→「オレすごい」と言う歪んだ価値観を持っていると思う。
それが彼らのアイデンティティであり存在価値であり、誇りなのだと思う。歪んではいると思う。

だから「元外人さん」が日本人とは何かとか日本のグローバル化を口にすると叩こうとするのだ。
彼らは「元外人さん」にそれを口にされると日本人としての自分の価値観が脅かされると感じるのだ。

おそらくそれは止まないだろう。
「元外人さん」のポストを見て不快感を感じる人の多くはヘイトをぶつけるだろう。それは二人に一人かもしれないし、三人に一人かもしれない。
彼らはそれを行うことで時間を無駄にしているとは微塵も感じていないだろう。
自らの存在価値を損ねる者に対し正当な抗議をしているつもりだからだ。
存在価値を脅かされたと感じた彼等は行動に移す可能性がとても高い。

その時の彼らはかなりの確率で「これは差別ではなく区別だ」と言うだろう。
彼らも一応差別は悪いことだという考えを持っている、差別をすると叩かれるのが分かっているから区別だと主張するのだ。
そして差別と区別の境は曖昧だ。
最近の最も派手な例で言えばBLMだろう。
黒人である彼らが差別されたと主張すれば、それはもう差別だった。それはデモに発展し、時には暴動が発生した。
差別と区別の境は非常に曖昧で、これは区別だと主張するものに対し、それは差別だと主張を返してもあまり意味はない。いや区別だと返されるだけだ。
問題はそれが差別に当たるのか、区別にとどまるのかを決めるのではなく、差別だろうが区別だろうがダメなもんはダメだと断ずることだ。
そのほうが早い。

そして残念ながらと言えばいいのかどうかは分からないが「元外人さん」の意見に共感する人がそれを示すのは多くて十人に一人か、まぁ百人に一人だろう。

つまり「元外人さん」に10のヘイトが来たらその後ろには20の偏屈者か30の狭心者が付いてきているだろう。
しかし「元外人さん」に共感する意見が10あったのならその後ろには100人、1000人の人がいる。

多くの日本人は日本を好きでいてくれる「元外人さん」を好きになる。
「元外人さん」は彼が属するコミュニティの外から「日本語お上手ですね」と言われ続けるだろうがそれは貴方を好きだからだと分かって欲しいと、思う。

殆どの日本人は、日本を好きと言ってくれる彼を好きになるし、彼が日本語を覚えてくれた事を喜ぶし、日本に帰化してくれた彼を歓迎する。


ある日、オレはベトナム人の彼が担任教師と深刻そうに話しているのを見かけた。
オレは何事かと思い彼に聞いた。
すると彼は言った。
「学校を辞める」と。
彼ら一家は難民で彼の両親は日本語を話せない。
彼は日本語を習得するために私のいる中学校に編入してきたのだ。
彼は両親を養う必要があった。
その為に担任教師に車の運転免許を取得する方法を聞いていたのだと言った。
そう、彼は当時19歳だった。身長は当時で170を超え東南アジア人にしては大柄な方だった。
だから私たちは肩車をして彼に対し「イジメ行為」を行っていた。

正直に言えばそれはイジメではなく、子供がただ大きいお兄さんに構って欲しかっただけなのだ。
19歳の彼にとってそれは非常にウザったい行為であっただろう。
今になれば分かるが19と言う年齢は10かそこらの子供に絡まれるのを微笑ましくは思わなかっただろうが、彼は肩車をしてウザ絡みしてくる子供を力任せに突き飛ばさない程度には大人だった。

彼は学校を辞めた。

運転免許を取れたのかどうかは分からないが職に付き両親を養っていくことを決めたのだろう。
オレが中学二年になった時、彼の姿は学校にはなかった。

オレは彼に再会した時に、帰化したのかとか永住権とは取ったのかなどとは聞かなかった。
オレの中で彼はどこまでも「ベトナム人の大きいお兄さん」だったから。

それが良いことなのか悪いことなのかは、分からない。
だが彼に対し「ベトナムに帰れ!」などとは微塵も思わない。
私は彼に再会できて良かったと思うし、日本で頑張って欲しいと思った。

それが日本人だと、私は思う。

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