あったかもしれない放課後Ver1.31
遠くに行きたいなあ、と思って考えなしに電車に飛び乗ったのだけど、あまりにも考えなしだったものだから、それは上り電車で、しかもその時に限って神奈川のほうまで行かないラインに乗ってしまって東京駅の真ん中で途方に暮れている、みたいなどうしようもなさを感じるときがある。
たとえばそれは、高校に入って長らく文芸部の存在を知らなくて、空き部屋だと思った文化部部室棟一階の一番奥の部屋を何気なく開いて、白石結梨とばったり視線が合ってしまったときに訪れた沈黙に似ている。
結梨は少し不揃いなショートボブの髪を揺らし、ハーフリムの眼鏡を指で押し上げると、呆然と立つ私を瞳の中にとらえた。
「なに?」
先に沈黙を破ったのは結梨のほうで、それは問いかけとして言葉足らずなのだけど、それはそれで彼女らしいと私は一人納得していた。
「ここって空き教室じゃなかったっけ?」
「ううん、文芸部」
結梨は教室での態度そのままに短く答える。違ったのは、彼女が長机の上で開いていた分厚いハードカバーの本に視線を戻さず私を見ていたことだった。
「他の部員の人は?」
結梨は虚空に視線をさまよわせ、まるでそこに誰かがいるかのように言った。
「三年生が二人、二年生が私の他に三人。あまり部室には来ないから」
「今日はいない、ってこと」
こくり、と結梨がうなずいた。その動作にわずかな警戒心を感じる。ああ、もしかして生徒会の抜き打ち監査とでも思われてしまったのだろうか。いやしかし、私が生徒会役員だと彼女は知っているのだろうか。いずれにしても問い詰める調子になりかけていたので、私は慌てて流れを変えようとした。
「あ、いまからでも入部ってできるかな?」
慌てていたので、考えなしの言葉が飛び出てしまった。
結梨は目を見開くと、ハードカバーの本をパタンと閉じる。すっと立ち上がり、部室にある事務用のチェストボックスから紙を一枚取り出した。
「それじゃ、これ書いて」
私の前にその紙を差し出した。入部届だった。
「入っていいの?」
そんな間抜けな問いに、結梨は普段通りの少しぼんやりとしたまなざしを私に向けてうなずいた。
「もちろん。歓迎する」
結梨は二ヶ月前、すなわち二年生の九月という中途半端な時期に転校してきた生徒だった。
転校生という異分子を迎えると、女子という生き物はそれなりにざわめいて見せるのだけど、彼女はそうした社交の儀に参加せず、問いにだけ答えて後は黙々と本を読んでいた。
読んでいる本は、ハードカバーだったり新書だったり文庫本だったりまちまちだったけど、ほこりっぽい教室の片隅でページに視線を落とす姿に私は見とれていた。
生徒会役員なんてやっているけれど、私自身は積極的に人と関わるのが得意ではなくて、転校生という話す口実を作りやすい相手でさえろくに口を利けてなかった。
私は考えて話そうとすればするほど、言葉があふれてきてしまってまとまりがなくなってしまう。作文の点数もひどいもので、〝もう少し一文を短くまとめましょう〟なんて評価を何度ももらっているくらいだ。
なんとか話すチャンスをとうかがっていて、機会はあるのに私の準備ができていなくてその機会を逸し続けていた。
そんな自分が嫌になって、人のいないところで少し頭を冷やそうかと思って開いた扉の先に彼女がいた。……なんてシチュエーションが実際に訪れたのだから人生ってわからないなあ、と思う。
「あ、あの、結梨って呼んでもいい?」
「いいよ。私は小夜って呼べばいい?」
ふしゅーっと顔から火が出そうになる。普段言葉が足らないことが多いのに、こんな風に私が距離感ミスったような事を言ってしまったときはちゃんとひと言補ってくれる。
小夜と書いてさよと読む。古くさい気がしてあまり好きではない私の名前も、快く響いて聞こえるから不思議だ。
私は長机の上で手を組んでほどいて、許可をもらった呼び名で呼ぼ――
『青春追体験ドリーミングストリーム体験版』はここまでです。なお、自動生成された思い出には再現性がないため、製品版では展開が異なる可能性がありますのでご了承下さい。
仮想ディスプレイが消灯する。
現実がやってくる。
◆◇◆
「どんな夢を見てたの?」
眼鏡の奥から少し眠たげなまなざしが私を見ていた。
「あったかもしれない放課後、みたいな」
私は曖昧に答え、こめかみに付けていた二つの端子を取って渡した。
「それはそうと、終わり方が唐突すぎるよ」
「開発中だから」
「やっぱ不都合が多くても現実のほうがいいな」
「そう」
短く答えた結梨は、かすかに笑っているようだった。
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