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もちろんこれはたとえ話です

 たとえば、私にほんの少しの勇気があったなら……。
 たとえば、私が一人でなかったのなら……。

       ☆

 中学二年の春、川村睦美むつみに声をかけよう、と言い出したのは好香このかだった。
 ——大丈夫、大丈夫。だっていかにもインドア派って感じじゃん。絶対、香乃子かのこと気が合うよ。
 好香はいつものように「大丈夫」を繰り返し、私の背中を押した。川村と齋藤で、たまたま席が隣り合った私は、読んでいるフリをしている本の向こうから何度も何度も様子を窺って、ようやく最初のひと言を言おうとしたときだった。
「あの、齋藤さん」
 心臓が口から飛び出るかと思った。川村さんが私に見覚えのあるキャラクター物の栞を差し出していた。
「齋藤さんのだよね?」
「うん、ありがとう」
「えっと、好きなの?」
 川村さんはそのキャラの出てくるタイトルを口にした。大失態に大混乱していた私はあっさり好きと白状して、気づいたときにはその話題で盛り上がっていた。
 ——ほら、言ったとおりじゃん。
 チャイムで話を切り上げて、お昼を一緒に食べる約束をした私に、好香はなにもしていないくせに得意顔だった。
 川村さん、睦美との出会いは大体こんな感じだった。
 趣味が合う相手は、十代の三分の一を中学校という戦場で戦い続けるために、これ以上ないほどに心強い味方になる。私達はアニメ、漫画、小説、ゲーム……といったインドアな趣味の中でも、可愛い女の子のキャラクターが出てくるコンテンツというさらに一歩奥地へ進んだところにある作品を愛していた。可愛い女の子のキャラクター自体は、そこまでマニアックなものではないのだけれど、私達が好む作品は中学生の女子からすればマニアックだった。
 そして、あえてそういうものを選び取ってしまう人間は、どこかしら普通ではない部分を持っている。
 私がそのノートを見てしまったのは、彼女のことを〝川村さん〟ではなく〝睦美〟と呼ぶようになった頃だった。
 見た目は普通のノートなんだけど、少し小さいA5サイズのノートだった。表紙にはなにも書いてない。それが睦美の席の下に落ちていたのを見つけたとき、鈍い私は名前が書いていないから睦美のものだとすぐに思わなかった。
 委員会かなにかの用だったと思う。
 いつものように他愛ない趣味話に盛り上がっていたところに、睦美が呼ばれて席を立った。その少し後だった。
 席の下に落ちていたノートを拾い上げて、何気なく私は中を見た。
 最初のページには、二年一組全員の名前が列挙されている。一行では足りないからページを半分に分けて、二列に並んだクラスメイトとの名前をこんなところで見るのは奇妙な気分だった。
 その中にひとつ、私の名前の横に〝☆〟が書き込まれていた。指先が震えるのを感じた。怖いもの見たさみたいな感覚だったのかもしれない。私はページをめくっていった。そうできたのは、おそらく見開きで一人二ページ分割り当てられた空間になにがを書き込まれていることがほとんど無かったからだ。少なくとも、この時は。
 齋藤香乃子のページに到達した。
 一行目は〝☆〟があり、二行目は〝友達〟からはじまる文章が——。
 私は自分がそこに書いてあることを理解する前に、〝友達〟の二文字が目に入った瞬間、反射的にノートを閉じていた。本当は少し読んでしまっていたけれど、忘れるように自分に暗示をかけた。
 好香も言っていた。
 ——見なかったことにしよ。そうしよ。
 だから、私はノートを睦美の机に誰にも見られないように入れた。
 ノートが睦美のものだとわかったのは、クラスメイトの名前の中に彼女の名前がなかったことと、私が最初に開こうとした〝川村睦美〟のページがなかったからだ。
 そして、私のことを〝友達〟と言ってくれそうな人は、このクラスの中では睦美以外にいない。
 A5サイズの、それ自体はどこにでもありそうなノートは、睦美のクラスメイト評価ノートだった。

       ☆

 私は上手くやっていたと思う。
 睦美とは相変わらず趣味話で盛り上がれたし、ときどきあのノートのことが頭の中にちらついてもすぐ打ち消して日常に戻れるようになっていた。
 夏が来て、期末テストと終業式を生き延びて、夏休みに二人で遊ぶときもきっと無邪気に表裏なく笑えていたと思う。
 だから、きっかけが何だったのかのは私にはわからない。

       ☆

 掃除当番の前でわざと飲み物を床にこぼし雑巾で掃除させる、といういじめがある。
 しかもそれがフルーツ牛乳だったのだから最悪だ。牛乳のにおいの中に甘ったるい果実のにおいが混じり、糖分が含まれるものだからべたべたする。掃除のときの雑巾は、すでに埃と土を吸収して水を濁らせており、バケツの中には髪の毛まで浮かんでいた。
「ほら、早く掃除してよ。当番だよね、川村さん」
 クラスメイトの誰かが言った。
 もちろんそれは女子で、カーストうんちゃらとはとくに関係のないはずの生徒のはずだった。運動部だと言うことを知っている。九月、二学期になって日に焼けた肌が少し目立っていた。
 彼女の他に二人の女子がしゃがんだ睦美を囲むように立っていた。
「ほら、早く」
 三人の誰かが言う。
 うつむいていた睦美が顔を上げた。
 すがるような目、というのがどんな目なのか、私はそのときになって初めて知った。
 睦美ははっきり私のほうを見ていた。
 いまなら間に合うはずだった。
 ——逃げよ。睦美も連れてさ、どっかに。そうだ、いっそ学校から出ちゃえ。それくらいやったほうがいいって。
 好香が早口に思いつきを口にしていた。
 ——じゃ、行くよ。さん、にー、いち。
 そして、私は静かに目を逸らして、その場を立ち去った。

       ★

 私はその時なにもできませんでしたし、なにひと言も言えませんでした。
 好香なんて人間はどこにも存在しませんし、弱い私は弱いままで一人でした。
 月が変わっても頃、睦美が学校に来なくなったのはまさしく必然だったと思います。
 彼女は私を〝友達〟と評価してくれていたみたいですが、実際の私は〝隣人〟としてすらまともに機能していなかったのです。クラスメイトの多くがそこで起きていることを知らないふりをしていたように。私もまた睦美を取り巻く残酷な現実から逃げたのですから。
 おそらく、彼女のノートに記された私の星は輝きを失っているか、消えていることでしょう。
 あるいは、それが星であることに別の意味が付いているのかもしれません。それはきっと他のクラスメイトにも行われているはずです。彼女から私達へのクラスメイト評価は、等しく星ひとつであるべきなのですから。
 星ひとつ。
 評価でありながら、負の烙印に他ならない印がそれです。

       ★

 投稿画面とキーパッド。ほぼ半分に分割された画面の真ん中ぐらいに、文字制限一杯を示すマイナス付きの数字が表示されていた。
 スマートフォンから顔を上げて、屋上に吹く風に顔をさらした。いつの間にかほてっていた頭が冷やされていく。少しぼんやりとしたまま、眼下の街を見下ろす。
 以前読んだ本で、行き詰まった女子高生がクライマックスでスマートフォンを海に放り投げるシーンがあったのを唐突に思い出した。
 私も全部投げてしまったら楽になれるだろうか。
 そんなことを思った。
 そんなことなんてできるはずがないことをわかっていながら。
 私はその場に腰を下ろすと、ゆっくりとあおむけに寝転がった。行く先のわからない雲が風に流されていく。夕陽の赤に染まりはじめた空に切れ切れの白い雲が溶けこむように消えていった。なぜかそれがとても綺麗なものに思えた。その時ふと睦美もこの空を見てればいいな、と思った。
 私にできるのは、結局そんなことくらいだった。
 身勝手に、睦美の心の平穏を願う。一方通行の、祈り。
 気の早い星が視界に入った。

「——嘘つきっ!」

 いきなりわき起こった怒りに、私は声を上げていた。
 屋上に叩きつけた拳に痛みが走り、スマートフォンが弾かれ手の中からすり抜けていった。
 私は体を起こした。
 コンクリートの床に四角い光がぽつんと浮かんでいた。
 這うようにしてを拾い上げると、自分が書いた言葉が飛び込んできた。

 ——もちろんこれはたとえ話です。

 たとえば。たとえば本当にそんな話があったとしたら、睦美を助けることができただろうか。
 いまこうして空を見上げている私は、一人ではなかっただろうか。
 問いの答えは、もちろんない。
 私はスマートフォンを両手で抱えると、声を押し殺して泣いた。



※この作品は第6回私立古賀裕人文学祭(古賀コン6)「テーマ:架空 “☆1” レビュー」のエントリー作品です。

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