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姑のピンポ〜ン イタリア 家庭内和平協議の結末

はじめに

ヴェネツィア人と結婚し、ヴェネツィアに約13年、暮らしていました。のちに離婚、子連れで帰国。それでも、長年いっしょに過ごしたイタリアの舅、姑とは、その後もふしぎな縁でつながれ…。
離ればなれになってしまったものの、国を超え、距離を超え、紡いできた家族の絆についてのエッセイ3篇です。

[目次]

  • 姑のピンポ〜ン イタリア 家庭内和平協議の結末

  • サンタさんのしょっぱいケーキ

  • 舅のアンティーク時計


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姑のピンポ〜ン イタリア 家庭内和平協議の結末


photo by Unsplash


ピンポ〜ン!呼び鈴が鳴るとため息をついていた時期があった。誰かはわかっている。姑だ。
イタリアで結婚していたころ、夫の両親と二世帯住宅で暮らしていた。もともと彼らの家だったところを半分に分けて二つのアパートメントにしたので、敷居は低い。ご飯を食べにおいで、息子の好物を作った、孫の顔を見せて、と、しばしばピンポ~ンが鳴るのだが、それが当時のわたしには悩みの種だった。

特に姑の厚意が重かった。「これ、息子が好きだから食べさせてあげて」、「洗濯物を取り込んでおいたわよ」(一階の共有部分にパントリーがあった)、「子どもを散歩に連れていってあげる。あなたは仕事で忙しいでしょう?」などなど。いえ、大丈夫です、と、遠回しに断ってもそれは耳に入らない。「Dai, dai (ほらほら遠慮しないで)」って感じで押し切られてしまう。
何度断っても押し切られ、ある日、我慢の尾が切れた。ささいなことで言い合いになり、追い詰められ、わたしはなんと、こう言い放ったのだ。
「このドアからこっちは別世帯です。今後は立ち入らないでください」

賽は投げられた。
当然ながら、姑は気を悪くした。それからしばらく「ピンポ〜ン」は聞こえなくなったが、かわりに不穏な空気がただよった。
姑がきらいなんじゃない。世話を焼くのは愛情からであり、大事にしてくれているのだということはわかっている。でも、こっちももう子どもじゃない。いい年したおとななのだ。自分の時間と空間が必要だし、自分の家のことはたとえ不出来でも自分たちでやりたい。
それを理解してもらいたかったのだが、むずかしかった。遠回しに言葉を尽くしたつもりだったが、うまく伝わらなかったのは、単なる遠慮ととられたのかもしれなかった。
姑は嫁から締め出しをくらい、さぞショックだったろう。わたしだってそんなことはしたくなかった。でも、いくら言ってもわかってもらえず、図らずしてハードな結界の引き方になってしまった。

義父母の家の閉じた扉を見て、気持ちが沈んだ。姑はさぞ怒っているだろう。舅はわたしをかわいがってくれていたので、妻と嫁のはざまに立って悩んでいるにちがいない…。
仲が良かった義理の姉からも責められた。「扉を閉めるなんて友だちにだってしない」と。泣きそうになった。好きで扉を閉めたわけじゃない。そうせざるを得ないよう追い詰められたんだ。説明しようとしたけど、義姉はぷいっと向こうに行ってしまった。

こういう場合、肝心の夫に間に入って状況を救ってもらいたいところなのだが、彼にそんな技量はない。そもそも発端は、夫が母親をめんどくさがる点にあるのだ。夫がちゃんと母親のいうことを聞いてあげないから、やさしく接してあげないから、お義母さんはわたしのほうにやってきちゃうのだから。
家と家が離れていれば、たとえ関係が悪くなってもさほど気にならないだろう。しかし、一階の入り口が同じの二世帯住宅では、いやでも顔を合わせる。気まずいどころではない。

何日かたって、「ちょっと話そうか」と、舅から声がかかった。舅とわたしとは最初から馬が合った。わたしは舅の誠実で高潔な人柄を慕っていたし、舅もわたしのことをなぜか買ってくれていた。
「わかりました」

いつもより緊張しながら舅といっしょに歩き、近くのカフェに行った。コーヒーを頼むと、舅はおだやかに切り出した。
「このままだとイスラエルとパレスチナだね」
わたしはため息をついて舅の顔を見た。
「…あやまれ、とおっしゃるんですか?わたしは悪くないです。何度言っても聞いてもらえなかったから、しかたなかったんです」
「わかってる。妻はああいう性格だしね。でも、争いをおさめるにはどちらかが折れないと。そういう場合、日本でも、年配者より年下の者から折れるのではないかな?」
「….やっぱりわたしにあやまれと?」
「あやまれとは言ってない。だけど多少折れて、この場をおさめることはできないかな?そうしないときみは孤立してしまう。それはきみにとって不利益だ。この国で生きていくにあたって、娘(わたしの義理の姉)だって味方につけておいて決して損にはならないからね」
「それはそうですけど…でも、わたしから折れるのはイヤです。たまにはお義母さんから折れてくださってもいいじゃないですか」
「妻にそんなことができるならきみに頼んでないよ。解決のカードを持っているのはきみだけなんだ」
「……」

自分から折れるのはイヤ、でもこの膠着状態が続くのも耐えられない……。悩んだ末、わたしは姑に手紙を書いた。自分の言ったことを謝りはしなかったが、はからずも気を悪くさせたことは遺憾である、といった内容の(苦笑)。とりあえず歩み寄りの姿勢は見せたわけだ。
すると向こうも、まあ話しましょうということになった。わたしと姑は向かい合った。わたしは自分のプライバシーは尊重してほしい、厚意はありがたいが自分たちの力だけでやりたいので見守ってほしいと繰り返した。
姑は、ああもちろんよ、そんなことはわかってる。でも、あなたもわたしのことを理解してくれなくちゃ。わたしはあなたたちにいろいろしてあげたいだけなの。他意はないのよ。……わかりました。
そんな感じで、なんとなく、なし崩し的に和解となった。

で、その後どうなったか。姑のピンポ〜ンはなくなった?なにも変わらなかった?
正解はその中間。しばらくは姑も遠慮していたものの、時間が経つうちにピンポ〜ンは戻ってきた。でも、その頻度は前より多少減った。おたがいに、少しは歩み寄れたのだ。
さらに後日、義理の姉はあやまってくれた。事情も知らず、一方的にあなたを責めて悪かったと。フェアで、いかにもこの人らしかった。

こうして義父母とは何年も隣同士、かなり親しく暮らした。ときには意見の相違でぶつかることもあったが、それはもう事件ではなくなっていた。

〜〜〜

でも、人生とはわからないものだ。義父母とうまく行くようになったら、今度は夫と離婚することになり、子どもを連れて日本に帰国することになった。

おたがいに納得した決断だったが、わたしは義父母がどんな反応をするかこわかった。イタリアではこういうとき泥仕合になるのがふつうだ。外国人の嫁などに、やすやすと孫を渡したりしない。
もちろん、舅と姑はそんなひとたちじゃないのはわかっていたが、それでも、これは大きな別れになる。わたしと子どもが行くのはミラノやローマではない、パリやロンドンでさえない、はるか遠い極東の国なのだ。めったに会えなくなるわけで、そんなこと、ふつうは耐えられない。

しかし、義父母は見事であった。黙ってわたしと夫の選択を受け入れてくれた。
毎日ピンポ〜ンする気もちを抑えられないくらいわたしや子どもをかわいがってくれていた義父母にとって、それがいかにつらいことであったか。そんなつらさを黙ってこらえてくれた義父母の深い愛情、悲しみを思うと、わたしは今も胸がしめつけられる。ごめんなさい。悲しませて、ほんとうにごめんなさい…。

しかし、さらに驚いたことに、ピンポ〜ンは海を跨いだ。わたしと子どもが日本に帰国し、1万キロも離れた場所に行ってしまったにもかかわらず、義父母は毎夏、会いにきてくれたのである。それは子どもが小学校高学年になるまで続いた。
義父母を初めて渋谷に連れていったとき、姑は交差点の激しい往来に目を丸くした。そして「あなたたちのせいでこんなところまで来る羽目になった」と苦笑した。遠出がきらいな人だったのだ。

〜〜〜

あの時まだ小さかった子どもは今では大学生になった。日本に帰国してからもう15年だ。名仲裁をしてくれた舅は何年か前に鬼籍に入った。
幸い、姑はまだ元気でいてくれていて、誕生日と季節の挨拶はずっと続いている。でもこのところ、電話の声が精彩を欠くようになった。ちょっと前までは「いつもあなたたちのことを思ってるよ」って、熱く話しかけてくれていたのに。

ここ3年、コロナで日伊の往来はむずかしかったが、きびしかった渡航制限がようやく緩和された。ワクチンも打ったし、今度はわたしが姑のドアをピンポ〜ンする番だ。
 


サンタさんのしょっぱいケーキ


今日はクリスマスイブ。明日のクリスマスは恒例の、イタリアとのスカイプだ。
子どもがいることもあり、別れた夫とその家族とは、十何年たってもつきあいが続いている。誕生日など、折にふれて電話をしたり、メッセージをかわしたりして交流をしているが、クリスマスには必ずビデオ会話で顔を合わせる。そのイニシアティブをとってくれていたのが舅だった。

うちの子を溺愛し、目のなかに入れても痛くないほどかわいがってくれていた舅。残念ながら何年か前に亡くなり、ここで切れるかと思ったら、それまであまり顔を出さなかった元夫が、舅に代わってスカイプしてくるようになった。わだかまりが解けたのか、家長としての意識にめざめたのか、クリスマスのスカイプは彼が引きついで続いている。

ビデオで顔を合わせると、高齢の姑だけでなく、みんな年をとった。元夫、わたし、義理の姉と妹、その夫たちも、白髪が増え、顔の輪郭がゆるんできている。うちの子や甥っ子、姪っ子たちが二十歳を越えたのだから、まあ当然だ。それでもこうして、顔を見ておしゃべりしていると、そんな長い年月が過ぎたとは思えない。ヴェネツィアや山の家で過ごしたクリスマス、年末年始の日々が、まるで昨日のことのようだ。

「料理のティントレット」と舅が呼んだ姑は、料理が上手なひとだった。クリスマスにはそれこそ、はりきって腕をふるいそうなものなのに、意外にシンプルだった記憶がある。
バカラ・マンテカートと呼ばれる、干し鱈のペースト。シーフードのマリネ。エビのカクテル。そして、イタリアらしくもない、スモークサーモンのイギリス風サンドイッチ。
「クリスマスイブのディナーは事前に準備しておけるものでなくちゃ。そうじゃないと主婦がゆっくり楽しめないでしょ?」保守的かと思いきや、意外に新しい考え方のひとなのであった。

山の家ではホワイトクリスマスを楽しんだ。まだそのころは家族でたったひとりの幼な子だったうちの子を、元夫や義理の兄、弟が、雪橇に乗せて遊ばせた。おとなたちは橇を引くのに息を切らせ、子どもは橇の上で頰を真っ赤にして笑っている。
日が落ち、暗くなると、夜空に天の河があらわれた。真っ暗な冬空に、ダイヤモンドをまぶしたかのような星たちの輝き。そのときばかりはおしゃべりな口をつぐんで、みんな静かに見とれた。
 
しかし、クリスマスの主役は、なんといっても子どもたちだ。子どもたちはサンタさんとプレゼントを楽しみにしていて、おとなは子どもたちを喜ばす演出を欠かさない。
「サンタさんにコーヒーとお菓子を用意しておいてあげようね」
イブには元夫が子どもに、パネットーネというクリスマスのお菓子をひと切れ、テーブルに準備していた。子どもは朝、目が覚めたら、真っ先にテーブルを見に行く。そしたらコーヒーカップは空、パネットーネもなくなっている。
「サンタさんが食べた!サンタさんが来た!」
目を輝かせる子ども。クリスマスツリーに目をやると、ソックスにはキャンディーが、根っこにはプレゼントの箱が届いている。
 
ヴェネツィアで過ごした最後のクリスマスイブは、本土側の近郊に住む義理の妹の家だった。うちの子が6才、甥っ子、姪っ子が5才のときだ。
元夫が赤い帽子と洋服でサンタさんに扮し、家の外を走るという演出をした。窓の外の闇に赤い帽子のサンタさんが走りすぎるのがちらっと見えると、子どもたちは、「サンタさんだ!サンタさんだ!」と大興奮。おおいに盛り上がった聖夜だった。

〜〜〜
 
15年前、東京に帰ってきて最初のクリスマスはちょっと切なかった。今まで大家族で迎えていたクリスマスが、母子ふたりきりになった。
「サンタさん、わたしが東京に引っ越したってわかるかなあ。それに、煙突がないと入れないんじゃない?」
子どもは心配している。わたしはたまらなくなって、子どもを抱きしめた。
「サンタさんは神さまと同じなの。どこにいてもわかるし、どこからでも入ってこられるから大丈夫だよ」
ふたりで自転車でクリスマスツリーを買いに行った。それはヴェネツィアの十分の一にも足らないミニツリーだったけど、子どもは喜んでくれた。

そのころわたしは仕事が過酷で、ほんとうはクリスマスどころじゃなかった。十何年ぶりの東京での、子連れの再出発。きびしさは予想していたものの、まさか毎日帰りが真夜中になるとまでは想像できなかった。つらいが、子どもはシッターさんに預けっぱなし。
こんなはずじゃなかった…。必ずしあわせにすると約束してイタリアを発ったのに、子どもの寝顔しか見られないような日が続いている。申し訳なさで胸がつぶれそうだったが、ごめん、家の大黒柱として、仕事は死守しなければならない。

クリスマスイブも間近にせまったある日、仕事に追われるなか、なんとか職場を抜け出して博品館までプレゼントを買いに行った。子どもがほしがっていた小さなお人形の家、シルバニアの家を買うためだ。
なんとしてでも子どもの喜ぶ顔が見たかった。子どものためだが、自分のためでもあった。子どものさびしそうな顔を見たりしたら、自分の心が折れてしまう。そんなむずかしい時期だった。

同僚たちの心遣いで、イブには残業しないで帰ることができた。子どもとふたり、ささやかなディナーを食べ、サンタさんのため、コーヒーとケーキを用意した。
「サンタさんに会いたいから起きてる」という子どもを寝かしつけたあと、コーヒーを飲み、ケーキを食べた。泣けてきて、ケーキがしょっぱくなってしまった。

〜〜〜
 
一年後、新しい職につき、ようやくひと並みの時間に帰れるようになった。その後もいろいろ試練は続いたが、徐々に生活も落ち着き、今年は日本で迎える16回目のクリスマスだ。
サンタさんのコーヒーとお菓子は、受験やらなんやらで忙しくなるにつれ、欠いてしまった。すっかり大きくなった娘は、今ではサンタさんより、ボーイフレンドと過ごすクリスマスに胸をはずませている。

サンタさん、ありがとう!子どもは無事、成長しました。
そして、最愛の娘…。たった6つで住み慣れた国を離れ、母親がそんな状況でさぞ心細かっただろうに、さびしいとも言わず、朝、顔をあわせると愛らしい笑顔を向けてくれた。そのおかげで、あのきびしい時期を乗り越えられた。
あの明るさはしかし、なんだったんだろう。小さい子ながら無意識に、あやうっかしい母親を助けようとしてくれたのだろうか。サンタさんが守ってくれていたのだろうか。
 
今夜はひさしぶりに、サンタさんにコーヒーとケーキを用意しようと思う。感謝をこめて。サンタさんを待っている子どもたちのもとに、サンタさんが元気でたどりつけるように。
そして、夜が更けたら食べちゃおう。きっと、もう、しょっぱくはならない。


舅のアンティーク時計


photo by Unsplash


スイスから時計が帰ってきた。半世紀以上前のアンティーク時計。イタリアの舅からもらったものだ。
離婚して日本に帰国して間もないころ、孫の顔を見に、ヴェネツィアから日本に遊びに来てくれた。その際、説明もなく、さりげなくくれたのだった。
ありがとうございます、と受け取ったものの、ちょっと解せなかった。なぜこんなものを?子連れで12年ぶりに帰国した日本で、生活再建しなければならない。遅くまで働きづめの余裕のない生活に、アンティーク時計は場違いというか、そぐわないというか、はっきりいって無用の長物だ。どうしていいかわからず、わたしはそれを引き出しにしまった。そしてそのまま、長年、忘れていた。

それが2年ほど前、片付けをしていたら、ひょこっと出てきた。この古い時計はなんだろう? 一瞬、いぶかしく思ったが、間を置かず思い出した。ああ、そういえば昔、舅にもらったんだったっけと。

最後に聞いた舅の声が、なつかしくよみがえった。5年前の、亡くなる数日前、電話で話したのだ。いつも週末にかかってくる電話がないので変に思い、こちらから電話すると、入院しているというのでおどろいた。

「入院なんて…どうされたんですか」
「前から心臓があまりよくないだろ? それでちょっと、ね。ま、たいしたことない。数日したら退院するさ」
「そうなんだ。それならいいけど…」
「おチビちゃんはどうしてる?」
「元気にしてるようです」 娘はそのとき、オーストラリアの高校に留学中だった。
「早くよくなってくださいね」
「ありがとう。またね。」
舅の投げキスの音が聞こえ、電話が切れた。それが最後になった。
 
つらい別れだった。それをまた、遠い外国にいる娘に伝えねばならない。気が重かった。
夫と別れた後も、舅はわたしたち親子を気にかけ、娘が小学校の間は日本に毎年、顔を見に来てくれた。高齢になり、長旅がむずかしくなってからも、週に一度は必ず電話をくれた。気持ちはうれしく、ありがたかったが、毎週となると正直、ツーマッチでもあり、ちょっと重く、めんどうでもあった。

前を向かなくちゃいけない。待ったなしの仕事に、子どもの学校や塾、受験、自分自身のスキルアップのための勉強、試験。対応しなければならないことが山とある。そんな時に電話が鳴ると、ああ、時間がないのに、と、イライラして、悠長に話してる暇なんてないんです!と、電話口で叫びそうになったこともあった。それぐらい、舅との電話は日常生活のひとコマとなっていたのだ。

その電話が鳴らなくなった。やたら静かで、なんやら薄ら寒い。まるで空気の温度が一気に下がったかのようだ。
あたりまえのように聞いていた声、あたりまえのように受け取っていた愛情。わたしたちが自分たちのことにかまけ、おざなりな返事をしても、やさしさと温もりを惜しみなく注いでくれていた人、常に見守ってくれていた人が、もういない…。

電話の向こうで娘は泣き崩れた。なんとかお葬式に行かせてあげたかったが、留学中だし、地球を半周以上することになる距離を、未成年ひとりで渡航させられない。わたしが休みをとってオーストラリアまで迎えに行き、イタリアまで連れていくという計画も立てたが、実行は困難で、あきらめざるを得なかった。

わたしと娘はそれぞれ、別々の場所で、舅の死を悼むことになった。わたしは長い追悼の手紙を書き、舅の棺に入れてもらった。わたしたちの愛と感謝が、天国の舅に、どうかいつまでも寄り添いますように…。遠い空から、そう祈るしかなかった。
 
ふいに出てきた時計を見て、舅との思い出がよみがえった。長年放置してきたのに、まるでこのたび初めて発見したかのように、唐突に夢中になった。

時計のねじを巻いてみた。いちおう動くのだが、そのうち30分、40分と遅れる。近所の時計屋さんに持って行ってみたら、すごくいい時計ですね、と感心された。知らなかったが、スイスの老舗メーカーのものらしい。ただ、修理するにはオーバーホールしかないという。とはいえ、なにぶん古いので、そうすると壊れてしまう可能性が高い。だからこのまま思い出として取っておいたら、ということだった。

それでもいいが、できたら再生させたかった。時計は舅が、ヴェネツィアで船会社をしていたおとうさんから受け継いだものと思われる。舅はその会社を継いだのだが、のちに手放すことになり、その挫折感と罪悪感に後々まで苦しんでいた。この時計はたぶん、舅と会社、その父親の最盛期を伝える時計だ。そんなことは知らない娘に、いつかそれを伝えたい…。

躍起になり、ほかの時計屋をまわった。いくつかの店に相談したが、ダメだった。古すぎるし、長年使われてこなかったから、手の打ちようがないという。
もうお手上げかな…。あきらめて、そんな話をたまたま父にしたら、「ちょっと見せて」という。父も亡くなった舅と少なからぬ交流があった。父は時計に目を凝らし、「なんとかできないか調べてみる」という。それで時計を預け、また1年以上の時が過ぎた。
 
正月に実家に帰った。そのとき、父から小さな箱を渡された。開けてみると、ビロードの小さな立派なクッションの中に、あの時計が鎮座している。

「どうしたの?」
「スイスの本社まで修理に出してた。こないだオーバーホールが終わって、ようやく、帰ってきたよ」
「スイス! で、直ったの?」
「直った。動くよ。ネジを巻いてごらん」
おそるおそるネジを巻いてみる。ふたりでしばらく、無言で時計を見守る。針が動いているのがわかる。

「生き返ったんだ…」
感無量だった。古い時計が生き返ったことも、スイスまで修理に出してくれたという父の計らいも。
「3、4分遅れるのは想定内だそうだ。アンティーク時計というのは、そういうものなんだって」
そうなんだ…。まったく知らなかった。昔は時の経ち方にも、ゆったりとした幅があったということか。

「ネジは毎日巻かなきゃいけないよ。そうすることによって油が行き渡り、きちんと動くんだそうだ。ネジを巻かないで放っておいたらダメになるって」
なるほど。自動巻やデジタル時計とはまったくの別物なんだ。時計とはいえ、生き物なんだ…。
「おとうさん、ありがとう」

礼をいうと、なんでもない、とでもいうように、父は軽く手を振った。そして「よっこらしょっ」と立ち上がり、庭のほうに行ってしまった。その腰の曲がった後ろ姿を見て、父もずいぶん年をとった、と、不意にさびしさが雪崩のように押し寄せてきた。

舅がヴェネツィアの船会社を継いで苦労したのとはスケールがちがうが、父も大阪郊外の旧家を継ぎ、家を守ることに苦心した。個としての生き方を犠牲にせざるを得ず、つらい、くやしい思いもしただろう。そこまでして守るものは、今では、精神的伝統というか、ある種の美意識ぐらいなのだが、この手のものは一度失われてしまうと取り戻せないものであり、なんの役にも立たないように見えて、唯一無二の価値がある…そう、父は感じているはずだ。

継承という時間を生きてきた父には、言葉は通じずとも、舅と通ずるものがあった。だからこそ、少なからぬ対価を払ってまで、時計を救ってくれたのだと思う。
わたしは時計を手にとり、しばし針の動きに見入った。
 
後日…。
時計はまた、旅に出た。リストバンドが男物で、娘の手首には大きすぎるので、縮めてもらうことにしたのだ。今度の旅は国内なので、それほど時間はかからないだろう。
戻ってきたら、毎朝、ネジを巻こう。娘はこれから人生の船出。忙しくてアンティーク時計なんかにかかわっている時間はないだろうから、それはまだしばらく、わたしの仕事だ。幸い、今ではそれぐらいの暇はある。

母子家庭の家長となって16年、時間は常にわたしを急き立てる敵だった。目の前に山積する課題をこなすため、目をつぶって駆け抜ける。それでも時間が足りず、これ以上、なにをどうやって効率化せよというのか、と、途方に暮れた。
そんな慌ただしい人生も、いつのまにか後半の真ん中ぐらいまで来た。これからは時間と戦うのではなく、時間を慈しむことをおぼえなければ。もう残りは限られているのだ。

ネジを巻き続けよう。生き返った舅のアンティーク時計が、きっと、今までとはちがう時間の使い方を教えてくれるだろう。生きすれて、心弾みすることも少なくなったが、ひょっとしたらまだ、未知のまっさらな光景が、この先、見られるかもしれない。
それでいいかな、お義父さん?まぶたの裏の舅のなつかしい顔に、ひとり、問いかける。
 


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