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マリアさんの毛皮

ヴェネツィアに嫁入りし、1990年代半ばから12年、暮らしていました。そのころ出会ったヴェネツィアの市井の人たちのスケッチです。


ヴェネツィアの冬といえば、毛皮のコートを着た、少し年配のご婦人方の姿を思い出す。街路で、広場で、たくさんの毛皮姿を見かけた。わたしがヴェネツィアに住み始めたのは1990年代後半。東京ではあまり見ない光景だったし、当時でもエコファーの台頭とともに毛皮はすでに時代遅れな感じだったから、よけい印象深かったのかもしれない。

ヴェネツィアの冬は寒い。ふつうの街なら車で移動すれば寒空に身をさらさないですむが、移動手段が徒歩と船に限られるこの街では、海風が直接、身に当たる。また、霧の出るようなじめっと湿った寒さなので、寒さがよけい身にしみる。毛皮はそんなきびしい寒さから身を守るのにぴったりの素材なのだということを、あとになって知った。わたしが寒い寒いとぼやいてばかりいるので、姑が「これを着なさい」と、自分の毛皮のコートを着せたのだ。

着てみたら、軽いのにすごくあたたかい。それに風も通さない。ヴェネツィアのような気候では、毛皮はファッションというより生活必需品なのだ、と、納得した。それでも自分にはしっくりこなかったので結局姑に返したが、ヴェネツィアのご婦人方が毛皮を着ている姿を見るのは好きだった。毛皮の重厚さは、ビザンチン、バロック、ルネサンスと、それぞれに異なる様式の歴史的建築物が妍を競う石畳の街によくなじんでいた。



義父母の家の家政婦さん、マリアさんも、冬はいつも毛皮だった。

マリアさんは義母より少し年上の、ヴェネツィアの下町っ子。ジュデッカ島に住んでいて、工員をしていた夫と二人の息子を育て上げた。夫が定年をむかえ、年金生活者となってからも、マリアさんは家計を助けるため、ずっと働き続けている。

職場である義父母の家へ、マリアさんはジュデッカ島から船のバスに乗っていく。自宅を出て海に面した河岸を歩き、船着場で船を待つ。船内は冷暖房が入っているが、サンマルコで降りたらまた歩かなければならない。夏は日差しに、冬は海風にさらされるので、夏はアッパッパーのような風通しのいいワンピース、冬は黒の長い毛皮のコートが通勤着だった。

「マリアさん、元気?」と聞くと、

「どうにかこうにかやってまさぁ」

という答えがいつも返ってくる。マリアさんが話すのはヴェネツィア弁。ちょっと東北弁に似た、ユーモラスであたたかい響きの方言だ。

イタリア標準語でさえおぼつかないわたしと、ヴェネツィア弁しか話さないマリアさん。知り合ったころ、ふたりの会話が通じていたかどうかあやしいものだが、マリアさんが舅や姑と話すとき、そこにはいつも笑い声があった。その明るい雰囲気はマリアさんがつくってくれているものであることは、なんとなくわたしにもわかった。

マリアさんはイマ風にいうと「天然」のボケキャラだった。ある日、姑の家の仕事を終えて帰り際に、

「シニョーラ、ちょっくら、オーストラリアまで行ってきます。3日で帰ってきますべ」

「オーストラリア?3日で?」

姑とわたしは驚き、顔を見合わせた。

「へえ、船で行ってきます」

「船で?オーストラリアまで?」

そこで姑はにやりと笑った。

「マリアさん、行くのはオーストラリアじゃなくて、クロアチアじゃないの?」

当時、ヴェネツィアからクロアチア行きのクルージングが流行っていたのだ。

「へ?クロアチア?そうかもしんねえ。ま、どっちもおんなずだべ」

まあ、そうなのだ。観光というよりは骨休めに行くマリアさんからしたら、オーストラリアだろうが、クロアチアだろうが、べつにちがいはないのだった。

また、カーニバル中のある日、マリアさんはまだ2才ぐらいだったうちの子を散歩に連れていってくれた。通りすがりに一匹の犬がセーターを着ているのを見て、子どもが目ざとく、

「あ!ワンワンもカーニバル!」と指さすと、マリアさんは調子をあわせて、

「んだ。ワンワンもおべべ着て出かけるだ。今夜は広場はおめかししたワンワンたちでいっぱいになるだよ」

といったので、子どもが夜、ワンワンたちのカーニバルを見に行くと言い張り、困ったことがあった。そんな、ノリのいい、茶目っ気のあるひとなのであった。



マリアさんは義父母の家で働いていたが、姑の心遣いで、よくうちにも手助けに来てくれた。これには助かった。結婚したとき、義父母の家をそのまま半分譲ってもらったのはいいが、家のつくりは昔のまま。調度品もアンティークばかりだったから、どうあつかっていいのか、わたしにも、家事などしたことがなかった元夫にも、皆目検討もつかない。

マリアさんはやってくると、まず、スモックのような仕事着に着替える。そして、手慣れた様子で調度品のほこりを払っていく。

「ほこりっていうのはとんでもねえずら。とにかくこれを落とすのが肝心だっぺ」

マリアさんにそう言われ、それまでほこりなんてものに注意を払ったことはなかったのが、以来、ほこりに目が行くようになった。確かに、ほこりがかかっているのと、ないのとでは大違い。姑の家はいつ行ってもぴかぴかの印象だが、あれはほこりがないからなんだ、と、おおいに納得した。

次に、ヴェネツィアン大理石と呼ばれる、小さな色石のモザイクでできた床。これはリフォームなどしていない、ヴェネツィアの古い家や教会などでよく見かけるタイプの床なのだが、マリアさんは掃除機をかけてから、水とアルコールをまぜた液で拭き掃除をしていた。月に一度ぐらいはさらにワックスをかけ、ポリッシャーという機械で磨く(べき、だそうだ。とてもやれない)。

銀製品は専用のクレンザーで洗い、磨く。ヴェネツィアングラスのシャンデリアは梯子をかけ、天井の近くまで登って、パーツをひとつひとつ分解。それらを洗剤につけて洗い、乾かしたらまた梯子を登り、パーツをひとつひとつ組み立てていく。木製の机や椅子、書棚にはtarloという木を食う虫がつくので、折々、この虫専用の殺虫剤を使って手入れしないといけない…。

初めて見聞きするこれらのことが新鮮で、わたしはマリアさんが来ると見習って手伝った。特に高所での作業になるシャンデリアのそうじはひとりではできないので、これは年に一度だが必ずいっしょにおこなった。はじめのころはマリアさんが梯子に登っていたが、そのうちわたしもやり方をおぼえ、役割交換となった。

そんなこんなで、新参者だったわたしも、いつのまにかマリアさんと長いつきあいになった。元夫が子どものころから、長い年月、通ってくれているうちに、家族の禍福も、争いも恥も、いやでもマリアさんの目に入ってしまっただろう。マリアさんがわたしたち家族のことに口をはさむことはなかったが、沈黙のなかにもきびしさ、寄り添う気もちがあるのが、時折、わたしにも伝わってきた。



そんなマリアさんが乳がんになった。いつもわたしたちを笑わせてくれていたマリアさんの、軽くはない病名に、家族みんながしんとしてしまった。そんななか、マリアさんだけが、まるで病気がうそのようにいつもと変わらず明るかった。疲れない程度にだが、仕事も続けてきてくれた。治療で髪が抜けてしまったときも、かつらでやってきて、

「セットする手間が省けてええですよ。奥さんもどうですか?」とおどけてみせ、姑を絶句させていた。

マリアさんの口癖は、「Si tira avanti. どうにかこうにかやってまさぁ」と「 Passera’. (大変なことも)そのうち終わりまさぁ」だった。まだ若く、人生経験の乏しかった当時のわたしには、ずいぶん身もふたもない言い方に思えたが、年をとり、人並みの苦労も重ねた今ではしっくりくる。自分でもときどき口にして、マリアさんに似てきたな、と苦笑している。

ひどい悲劇に見舞われなくても、いつの時代も庶民の暮らしは楽ではない。夫が失業したり、子どもの学費が工面できなかったり、ひとつ山を越えたと思ったら、すぐまた別の山が待っている。だれかになんとかしてもらえる身分なら泣けばいいが、だれにも頼れない場合は歯をくいしばり、やり過ごすしかない。マリアさんもきっと、苦しみもいつかは過ぎ去って行く、どうにかこうにかやり過ごそうと、自分に言い聞かせてきたのではないか。マリアさんのひょうひょうとした明るさには、同量の悲しみが含まれていたように今では思う。

離婚して日本に帰る前、ジュデッカ島にマリアさんを見舞った。島の裏側の集合住宅にある小さな家は、質素だがきれいに整えられており、居心地がよかった。猫の額ほどの庭があり、バラが一本、狂い咲きしている。少しやせたようだけど、いつものようにきれいに薄化粧をして、かつらが似合って若々しく、とてもガンを患っているようには見えなかった。

「絶対によくなってくださいね。そして日本に会いに来てね」

「ニホン〜?それは船でいけるっぺ?」

「船ぇ?」

マリアさんのボケに、わたしも子どもも笑いこけた。子どもは去年、飛行機に乗ったことをおぼえていて、

「日本にはヒコーキで行くんだよ。あたし、行ったことあるから知ってるの」

と、おしゃまなことをいう。

「ヒコーキとやらも海の上を行くのかい?」

「ちがうよ、ヒコーキはお空を飛ぶんだよ」

「じゃあ落ちるからイヤだね」

「落ちないってば!」

マリアさんはムキになる子どもをからかって笑っている。

おいとまするとき、辞退するわたしをふりきり、寒いなか、船着場まで見送ってくれた。いつもの黒い毛皮のコートで、海風から身を守って。船に乗る前に、「おだいじに」と肩を抱くと、

「死んだらようやく楽になれるべ。どうってこたない」とおどけた顔をつくって笑った。

それがマリアさんとの別れになった。


「働く女性」なんてことばがまだないころから、家族をささえるため、あたりまえのように働き続けてきたマリアさん。毛皮はその通勤着だった。あの年季の入ったコートはどうしただろう。マリアさんにはお嫁さんがいたが、わたしと同い年ぐらいと聞いているから、毛皮はやっぱり着ないだろう。

マリアさんの思い出と結びついて、毛皮は、わたしには、勤労の尊さを象徴するものとして記憶されている。

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画像協力:
UnsplashDarran Shen, Geoffroy Hauwen, Martin Katler, Marco Ceschi

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