今からでも間に合う孤独の楽しみかた(1)
ここ数年、というか、社会人となってから、明らかに思考力が低下しているのを感じる。
俺の本分は、どんなことでもよくよく考え、どうでもいいことにでも真理を求め、何事にでも意見を持つ。そんなことだったはず。
そんな俺が、日に日にバカになっている。そう思う。
もちろん、そもそも頭の回転がいいわけではないし、世間のことだってほぼほぼ知らない。
三十路に突入し、子供も生まれたってのに、そんなんでいいのかと思ったりもするけれど、それが俺なんだから仕方ない。
多分、一生モラトリアムだ。
それをやめるつもりもないし、どうしたってやめられないだろう。
とはいえ、そんな俺でも、「考える」、そして、「自分なりの意見を持つ」ということに関しては自信があったはずだし、俺を面白く思ってくれる人たちは、俺のそういうところこそを面白がってくれていたはず。
それがどうだ。最近はその線すら、からっきし。
それって、俺にとってはアイデンティティの喪失にも等しいことなんじゃないかと。そんなことを考えた。
なぜ、そうなってしまったのだろう。
学生の頃と今とで、変わったことはなんだろう。
きっと、色々ある。
まずは、時間に対する捉え方。
時間が無限と思ったことは昔も今もなかったけれど、今は労働というクソつまらん時間が圧倒的に増えたため(※)、それ以外の時間を”必要以上に重要視する”ようになってしまった。
それはつまりどういうことかというと、”無駄な時間や無駄なことを無駄なまま楽しめなくなってしまった”ということ。
これは致命的だ。
なぜなら、人生において、無駄を無駄のまま楽しめるということこそが心の豊かさだと思うから。
その考えに照らし合わせると、今の俺の状態は、明らかに豊かではない。なんなら、心が貧しいと言ってもいいくらいだろう。
そう分かっているのだけれど、1日24時間のうち、本当の意味で自由な時間が1日2〜3時間あれば御の字という現状では、なるべく無駄を省き、効率的な楽しさを求めてしまいがち。
結果、ネットサーフィンや、スマホゲーなど、ファストフード的な娯楽に走りがちになってしまい、本当に好きな娯楽であるところの映画や読書(これは通勤時間にしてるけれど)、じっくり腰を据えるタイプのゲームや一人旅なんかからは遠ざかってしまっている。
本当に好きな娯楽とファストフード的娯楽の違いは何かと言えば、心へのインプットがあるかないかだと思う。
ファストフード的娯楽は、たしかに短時間でそれなりの満足はさせてくれる。でも、それを消化するのもあっという間で、心にはほとんど何も残らない。
それに対して、映画や読書、真に作り込まれたゲームは、もちろん作品にもよるものの、時間を猛烈に奪うと同時に、心にも多くのものを残してくれる。
そして、それこそが日々の糧となる。
もちろん、そんなことよりも家族や友人との団欒や交流の方が糧になるという人もいるだろうし、そっちの方が大多数なのかもしれない。
でも、どうやら俺はそういう人間じゃない。
団欒は嫌いじゃないし、なきゃ寂しい。
でも、俺の場合、それで心の均衡が取れるわけじゃない。
これは、団欒をないがしろにしてるとか、そういうんじゃなくて、あくまでも俺がそういう人間なんだっていうこと。
世の中には、一人にならないと死ぬヤツもいるってこと。
人は一人じゃ生きられない。
これはよく言う話だし、もちろん一つの真理だろう。
でも、真理だからって、あまねく全員に、いつでもどこでも当てはまるわけじゃない。
少なくとも、俺にとっては当てはまらないことも多い。
だって、一人の方が楽なんだもの。
そして、そんな俺は、きっと俺だけじゃないはず。
でも、こと日本においては一人であること、孤独であることが軽視、軽蔑され、集団であること、同じであることが重視、尊重される空気があると思う。
そりゃもちろん、農耕民族としてムラの論理で生きてきた日本人には仕方のないことなのかもしれないし、美点となることもあるのは分かる。
でも、その結果として、ムラを守るために個人を切り捨てる、村八分という習慣も、多分に今に残してしまったんじゃあないだろうか。
自治体としてのムラは消えつつあるものの、ムラは学校や職場、テレビ、SNS、国そのもの、いや、そもそも人の心の中に出来上がっている。そんな風に俺は思う。
つまるところ、現代日本ってのは、一人にゃ生きにくい場所だ。
でも、それは思い込みかもしれない。
だって俺、一人の方が楽しいもん。
そんな俺が思ったことをつらつらと文体もテーマも特に決めず、ただただ書く。
それがこの『今からでも間に合う孤独の楽しみかた』。
なんだか自己啓発やらHow to本みたいなタイトルだけれども、内容は必ずしもそうとは限らない。
というか、 ぶっちゃけ考えるためのリハビリとして好きに書くという趣旨なので、別にタイトルつける必要もないっちゃないものではあるんだが。
でも、このタイトルは大親友との約束を果たすためにも外すことができなかったもの。
我が友よ、例のアレ、10年越しで、いよいよ書くよ〜ってなわけで……。
※労働の大切さは分かっているし、楽しい瞬間がないわけじゃない。労働が生き甲斐であることを否定する気もないし、それは本当に尊いことだと思う。ただ、俺にとって労働は、何よりも優先順位が低いというだけ。この辺りについても書く機会があると思う。
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