『夢の守り人』
「なんで、パパは、私の誕生日に一緒にいてくれないの?」
今日で7歳になる心に言われた一言が、胸にチクリと刺さった。
「パパは、お仕事で忙しいのよ」
亜美——妻だ——の一言も、僕の胸をチクチクとつつく。
今日は、心の誕生日だ。
子供にとって、誕生日はいつだって特別だ。中でも、小学校に上がって初めての誕生日である今日は、さらに特別なものであることは間違いない。
けれど、今日、僕は仕事に行かなければならない。だから、心と一緒にいてあげられない。それは、まぎれもない事実だ。
だから今日は、気を利かせて亜美が仕事を休んでくれた。それは感謝すべきことなのだけれど、僕はそれを正直に受け止めることができないでいる。
そもそも、仕事という言葉は、亜美と僕とで、意味が違う。
亜美は正社員で、僕はバイト。仕事に対する重みが違う。だから、当然、家庭でも肩身の狭さを感じている。
亜美が直接僕に嫌味を言ったり、不満を言うことはない。寧ろ、僕を励まし、応援してくれる。
でも、それが僕の心を締め付ける。勝者から敗者への応援は、憐れみなのだ。
——きっと、亜美にそんなつもりはない。
でも、僕にとっては同じことだ。
僕らが結婚したのは、僕が20歳、亜美が24歳の時だった。いわゆる「できちゃった」というヤツだ。
僕は、当時在学していた大学を中退し、働く道を選んだ。
僕が、亜美と心を養っていく。そう誓ったのだ。
とはいえ、のんべんだらりと学生生活を送っていた僕が、そうそう職にありつけるはずもなく、結局、アルバイトで食いつないでいくこととなった。まずはバイトで、そこからステップアップしていく。そう考えていたのだ。
でも、現実はそうもいかない。
夢も目標もない僕は、バイトも長続きせず、あれこれと職を変えた。
そもそも、夢がないから大学へ行くことにした僕だったのだ。
——こんな僕にも何か夢があるはずだ。
そう信じながらも、何一つ長続きしない。
そんな毎日を送っている。
一方で、無事大学を卒業し、卒業と同時に小さな編集社で働き始めた亜美は、地道にキャリアアップを積み重ねていた。
実力社会での仕事は理不尽なことも多く、亜美はよく愚痴をこぼす。
その度に僕は、「他の道を探してみたら?」と言ったが、亜美は、「ありがとう。でも、これが私の道だから」と、はにかむだけだった。
理不尽なこと、嫌なことに耐える必要など、どこにあるのだろう。
僕はそう思うのだが、でも、その亜美の我慢のおかげで、僕と心は生きている。だから、僕は亜美に頭が上がらないのだ。
心は、5月3日に生まれた。
なんでも、この日は日本国憲法が施行された日らしく、国民の休日なんていうものに設定されている。さらに、その辺りはやたらと休日が多く、世間では、ゴールデンウィークなんて呼ばれる大型連休になっている。
正直な話、僕のようなフリーターには、世間の休みなんてものは、あまり関係がない。フリーターがいつ休むかは、自由なのだ。
でも、だからこそ、絶対に休めない日というのはある。
例えば、郵便局でバイトをするなら、正月は休めない。おもちゃ屋なら、クリスマスシーズン。コンビニなら、地元のイベントの時。そして、遊園地では、大型連休だ。
今日は5月3日。日本国憲法が施行された日で、大型連休の中日。僕が絶対に仕事を休めない日で、心の生まれた日。そして、誕生日を楽しみにしていた心を裏切った日。そんな特別ずくめの日なのだ。
半べそをかく心と、その頭を優しく撫でる亜美に「行ってきます」と告げ、足取り重く家を出た。アパートの階段を降り、路地に出る。後ろ髪を引かれる思いで振り返ると、ふわりと、柑橘系の匂いがした。この匂いを、心は「パパの匂い」と言い、亜美は「好きな香り」と言う。亜美が、いつも僕にプレゼントしてくれる香水の匂いだ。
その匂いを胸いっぱいに吸い込み、踵を返す。今は仕事だ。それが終わったら、ほんのすこしの間でも、心のための時間を作ろう。
駅前は、人でごった返していた。友達同士で語り合いながら行く者、手を繋いで歩く恋人たち。そして、笑顔の家族。その誰もが、連休を、日々を楽しんでいるように見えた。
僕の姿は、どう映るのだろう。
やはり、うだつの上がらないフリーターに見えるのだろうか。
そんな、ありもしないことを思いながら、切符を買い、改札を抜け、電車に乗った。
電車の中で、高校生くらいのカップルが話しているのが耳に入った。
「何乗る?」
「絶叫系は全部制覇したいよねー!」
どうやら、遊園地に行くらしい。何の気なしに彼らの手元を見ると、そこには、僕が雇われている遊園地のガイドブックがあった。
同じ場所へ行くというのに、僕と彼らとの間には、恐ろしいほどの距離がある。
彼らはこれから、思う存分楽しむのだろう。僕はこれから、そんな人たちを、ごまんと楽しませなければならない。
彼らと同じ駅で僕は電車を降り、彼らとは違う足取りで遊園地へと辿り着いた。
関係者用通用口へ回り、守衛にスタッフカードを見せ、中に入る。
正社員の方々への挨拶もそこそこに、スタッフルームへ向かった。
スタッフルームでは、後輩の女の子が化粧をしている最中だった。
「お疲れ」
声をかけると、彼女は振り向いた。
「お疲れ様です、佐山さん! ……あれ、今日って、心ちゃんの誕生日じゃなかったでしたっけ?」
そんなこと、よく覚えていたな。そう思いながら答えた。
「そうなんだけどね。流石にゴールデンウィークは休めないよ」
そう言うと彼女は、眉根を寄せて唇をくの字に曲げた。きっと、彼女なりの同情なのだろう。
「君こそ、彼氏くんと旅行じゃなかったの?」
「いやぁ、やっぱり休めませんでした……。行きたかったな……。箱根、温泉、アウトレット……」
彼女は、全身で残念を表現しながら、がっくりと項垂れた。
「アタシ、こんな心持ちで笑顔の接客なんて出来ませんよぅ」
「お互い様だね」
言いながら、僕はパイプ椅子に腰掛けた。
「いやいや、佐山さんは顔見えないじゃないですか」
「まあね」
「いいなぁ……。こういう時は、アタシも着ぐるみ着たいです」
「暑いよ?」
「やっぱり、やめときます」
彼女はそう言って笑ったあと、再び化粧に集中した。
僕は、テーブルの上に用意されているインスタントコーヒーを作り、一口すすった。酸っぱいような苦いような、なんとも言えない味が口に広がる。
そのなんとも言えない味の茶色の液体を飲むと、亜美と付き合いだした頃のことを思い出す。
僕と亜美は、同じ写真サークルの先輩後輩だった。別に、特別仲が良かったわけではない。ただ、僕は、亜美の撮る、透明感がある写真が好きだった。
僕の大学生活初の文化祭の時、ちょっとした事件が起きた。
僕たちのサークルは、写真の展示会をしていたのだが、そこで、一人の客が亜美と口論を始めたのだ。僕はその口論を、インスタントコーヒーを飲みながら眺めていた。すると、突然、「やめちまえ!」という声が響き、次の瞬間、その客は亜美の写真を壁から破り捨てた。
それを見て、僕はなんだか無性に腹が立ち、気がつけば、僕がその客と口論になっていた。
結論から言えば、その客は亜美の父親だった。いつまでも写真ばかりに入れ込んでいる亜美に、写真を諦めさせ、"まともな職"に就かせようとしていたらしい。
その話を聞いた僕は、こう言い返していた。
「まともな職ってなんですか? 好きなことをすることが、夢を追うことが悪いことなんですか」
「そうは言っても、こんな写真では何にもならんだろう!」
「こんな写真? 亜美先輩は、この写真に自分の全てを写し込んでいるんです。僕はこの写真が、亜美先輩の写真が好きです。好きだと思ってくれる人がいるなら、それは尊いものなんです。それを、"こんな"なんて言葉で片付けないで下さい!」
結局、その後も口論は続き、最終的には、亜美が僕と父親の両方に頭を下げ、その場をおさめた。
そのあとの打ち上げで、亜美が話しかけてきた。
「さっきはゴメンね。うちのお父さんが……」
「気にしないでくださいよ。というか、生意気言ってすいませんでした」
「ううん、生意気なんて、そんな。それに、お父さんも、今時珍しい熱い男だって褒めてたよ」
「思ったままを言っただけですから」
そこで亜美は、少しだけ俯いた。頰が赤いのは、お酒のせいだろうか。
「思ったまま……か。——ありがとう。佐山くんのお陰で、心が決まったよ」
「——?」
その時は、亜美の言葉の意味は分からなかった。
それから僕たちは急激に距離を縮め、恋人になり、子供ができ、そして、結婚した。
あの時の言葉の意味を知ったのは、結婚してからだ。
亜美は、僕が亜美の父親へ言った一言を胸に刻み、写真で生きていくことを決めたらしい。
もちろん、それはそう簡単なことではなく、今だって亜美は、写真ではなく、編集の仕事をしている。その傍らで写真を撮り、コンテストに出している。最近は、ようやく写真の仕事もちらほら来るようになったらしい。
だからなのか、亜美にとって僕は、"夢の守り人"なのだという。
「夢の守り人——か。」
僕は、インスタントコーヒーを飲み干した。辺りを見回すと、彼女はいなくなっていた。
「守り人の夢は何なんだ」
そうつぶやいてから、僕は腰を上げ、大きなクマの着ぐるみを身に付けた。笑顔が貼りついた頭を被ると、外界から完全に遮断される。するともう、世界に僕は存在しない。そこにいるのは、陽気なクマだ。
引き戸を開け、僕は、僕のいない世界に出て行った。
僕のいない世界は、笑顔で溢れていた。特に、子供たちは、僕が演じるクマを見つけては駆け寄り、楽しそうな笑顔を振りまく。
心は、どうしているだろう。笑顔でいるだろうか。
「ほら、クマさんよ。抱っこしてもらいなさい」
背後から、そんな声が聞こえた。僕は、大袈裟な身振りで振り返る。
しかし、そこで僕は動けなくなってしまった。そこに、見慣れた顔があったから。
そこには、亜美がいた。そして、亜美に手を引かれ、項垂れる心がいた。
なんで……?
僕が動けないでいると、亜美は、心に気付かれないよう、僕に目配せした。それを合図に、僕は二人へ駆け寄っていく。僕が駆け寄ると、亜美は、心の手を僕へと差し出した。心は、項垂れたまま僕と手をつなぐ。
しかし、やがて心は不思議そうな顔をして僕を見上げた。
すんすんと、鼻を鳴らしている。
その顔をじっと見つめてから、僕は心を抱き上げる。心は、相変わらず不思議そうな顔をしていたが、不意にそれが笑顔に変わった。
その笑顔を見た途端、僕の中にあったもやもやとしたものが、すっと、どこかへ流れていく。
僕は、心を抱き上げたまま、亜美へと振り返る。亜美は、優しい顔で微笑んでいた。
——ああ、そっか。
僕は心を降ろし、亜美の手へと預けた。
亜美は心の手を取る。
「やっと笑ったね。じゃあ、クマさんにありがとしよっか」
心は僕へと振り返り、ぺこりと頭を下げた。続けて、亜美も頭を下げる。
「クマさん、ありがとう!」
頭を上げた二人は、満面の笑みだ。
そして二人は僕に手を振り、歩き去っていく。去り際に、心が亜美に言った。
「あのクマさん、パパの匂いがした!」
亜美は、悪戯っぽく笑う。
「心を笑わせるために、お父さん、クマさんになってくれたのよ。……クマさんのお父さんは、嫌?」
心は、さっきと同じ満面の笑みで答える。
「大好き!」
僕は今、世界に存在しない。
でも、二人の心の中には、確かに僕がいた。そして、その僕に笑いかけてくれる。
——そうなんだ。
やっと、僕の夢が見つかった。
それは、ずっとそばにあったんだ。
——二人の笑顔が、僕の夢だ。
それから僕は、夢を追うことをやめた。
二人を守るためにする全てのことが、僕の夢なのだから——。