こんにちは。
今日は、朝の連続ドラマや大河ドラマで「(ディーン・フジオカさんが演じる)五代様~!」と、大人気になっている五代友厚の魅力について迫ってみたいと思います。
こちらはとっても参考になる動画です。
五代友厚は、渋沢栄一と同時代に武士から実業家へと転身した人物です。あまり歴史の教科書では取り上げられないのですが、歴史的な大事件の裏側にいたのがおもしろいです。
例えば薩英戦争のときに、世界最強だったイギリス軍は薩摩に上陸しようとしていました。そのときに、イギリス船に拿捕されていた五代友厚は、「示現流を身につけた薩摩の侍は強えぞ」と説き伏せてイギリス軍の上陸を阻止したとも言われていますね。
また当時において、根性論で攘夷を唱える薩摩藩に対して、「米を輸出して、資金を貯め、海外から砂糖を生成する機械を購入して、さらに大量の砂糖を輸出して資金を稼げ。そこから軍艦や銃を買うのだ」と薩摩藩に提言していました。驚くべき発想ですね。
紀州藩の「明光丸」と坂本龍馬が所有する「いろは丸」が衝突して沈没した「いろは丸事件」では、国際法に詳しかった五代友厚が調停に入り、龍馬は7万両の賠償金を勝ち取ることができました。
1868年(慶応4年)になると、五代は外国事務局判事として大阪に勤務することになります。五代が決着に向けて動いた事件で有名なのは、大阪でフランス人水兵が暴れた「堺事件」です。
外交官としてその他に、神戸事件やパークス公使襲撃事件の処理にもあたりました。
1869年に明治政府から退いた五代は、江戸時代の小判などを買い取って、それを溶かして新しい貨幣の材料として政府に売るという商売を始めます。このビジネスは成功し、その後もさまざまなビジネスを展開します。
1878年に五代は、大阪商法会議所の会頭として、大阪の商人を新しい経済体制に適応させるための指導啓蒙にあたります。さらにその趣旨を徹底させるために、大阪商業講習所を設立しました。なぜ、商人の教育が必要なのか。以下の著書では次のように述べられています。
明治初頭のわが国の教育制度は微微として振わず、殊に実業教育などというものは、全く顧みられなかった。当時の実業徒弟はすべて、年期制で幼児より主家に入って商売を見習うだけでこと足れりとしたばかりか、もともと商人は町人として卑しめられて来たので、自らも卑下し、新知識を呼吸して、社会上の地位を向上させようとする者はなかった。自然、旧習を墨守するを能として、進取開発の気に乏しかった。(290頁)
五代友厚は、このままでは大阪の実業界は、世界からみて時代遅れになってしまうという危機感から、新しい実業家の養成機関が必要だと考えたのです。そのために設立した大阪商業講習所が大阪商科大学になり、やがて大阪市立大学、大阪公立大学がその後身となっているのです。世界を渡り歩いてきた五代が最後に行きついたのが、商売について学ぶことが大切であるということだったのです。
イケメン役者が演じているという側面だけでなく、武力と商売の知識の両方を兼ね備えた五代友厚そのものにあこがれる人が多いのも納得です。
では、今日はこの辺で、また。
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