非合理な特殊解 17
「エマ、ただいま。」
夏子は明るく元気に言ったつもりだった。
「遅かったのね。どうしたの。疲れた顔してる。」
「あのね。」
夏子はどの辺りから説明すれば良いか考えた。
「帰る途中、公園で少し休んでいたら西田がナイフを持って襲って来たの。」
「え!本当?」
「うん本当。」
「公園を歩く人達に助けてもらって、何とか西田を宥めたよ。」
「でもどうして?」
「乾燥わかめはそのまま食べないでって何故もっと早く言わなかった?というメッセージの書かれた紙のボールが仕事中に飛んできたよ。」
夏子はエマへ事実だけを言う事にした。
「それだけで?やはり狂った人だわ。」
「まあ。」
「警察は?」
「呼ばなかった。咄嗟にだけど、解決した未来が一瞬見たような気がして。その間に何となく警察がいなかったの。周りの人が警察を呼んでくれようしたけど、だから私がそれを止めたのよ。そんな中で場を収めるには、手首を切って自殺しそうな男の子を止めようとして揉み合っている、という事にしてみることにしたの。」
「西田は?」
「ナイフ三本持っていたけど、何となく本当は殺す気もあまりなかったのかなと思う。」
「はい?ナイフ三本?夏子は甘すぎる。殺す気無い訳がないよ。夏子、殺されちゃうよ。」
「そうかな。」
「うん。怖いわ。」
「とにかく、これからしばらく真っ直ぐに家には帰らないよ。念のため色々な所を寄り道して巻いてから朝9時ごろ帰るから。」
「仕事紹介しなければよかった。」
「大丈夫。きっと何とかなるよ。すごく純粋な子供のような部分と素直なところもあるような気がしたの。信じたい方へかけてみる。きっと大丈夫。」
「危ない時は私にでも警察にでもちゃんと連絡してね。嫌な予感がしたらメールして。迎えに行くから。」
「うん。ありがとう。」
夏子は電池が切れたようにそのままソファで眠り込んだ。
気がついた時には夜の9時を過ぎていた。10時間も眠っていたようだった。もう出勤の準備をしなければならない時間になっていた。
「夏子。ご飯食べて。今日何も食べてないでしょう。」
「わあ、苺だ。ありがとう。元気でるよ。」
ソファから起き上がると、そばのカウンターの上にパンとスープと苺が山盛りのカップが置かれていた。
「夏子は自分が思うより疲れてたんだよ。無理しないで。」
「うん。ありがとう。」
苺をパクつきながら台所にいるエマを眺めた。こんな穏やかな時間だけで過ごせたら幸せだろうなと思った。
この日の夜の出勤は憂鬱だった。西田はどんな顔をして来るだろうか。
夏子が自分の机へ着くなり、橋本からまた10人のホストに来ているメッセージを返信するところから始めてと指示があった。
いつものようにPCの電源を押した時、この日も紙の玉が飛んできた。西田がまたニヤけていた。夏子が紙を開くとこうあった。
『皆んなあんたのこと仕事出来ないヤツって言ってるよ。』
自分で起こした昨日の公園での出来事について、この西田という人は全く何とも思っていないようだった。エマの言う通り、私の判断は甘かったのだろうか、今日もナイフを持って来ているのではと夏子は思いながら、紙の裏にこう書いた。
『みんなで近藤は使えないって、木田さんに言ってもらえないかな。』
その紙を丸めて夏子は投げた。投げられた紙の玉は西田のキーボードの上に落ちたようだった。西田はすぐに紙を開くと、また何かを書いて夏子に投げた。
『は?やめさせねーよ。仕事できるようになれよ。』
夏子は紙を読みながら大きくため息をついた。そしてまた紙に書いた。
『辛いのよ。みんな色々な悩みを抱えてて、メッセージで励ます事しかできない。そのメールだって、本当に励ましになってるか、本当は傷つけてるんじゃないかとか思う事もある。自信がないよ。 』
西田、あなたはどんな気持ちでこの仕事をしているの?と思いながら紙を丸めて西田の側に投げ入れた。するとものの数秒で紙の玉が飛んできて夏子の頭に当たった。
『あんたバカだな。』
夏子のPCは立ち上がり、ログイン画面になっていた。
『バカで結構。こんな仕事でも、どこかの誰かの役に立ってるんじゃないかと思える瞬間が少しでもあるからやっていけるんだよ。それが全くなくなったら出来ないよ。クビにして欲しいよ。木田さんに言ってよ。近藤を首にした方が良いって。お願いします。』
夏子はこれを最後にしようと思った。紙を丸めて西田の頭に当たるように投げた。また数秒のうちに『嫌だね。』という紙が投げられて来たが、夏子はもう紙を返さず、業務に入った。
まず今日担当するホストのキャラクターを確認した。Kyoko_Mizunoがありますようにと願った。
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管理者 近藤夏子
管理ホスト名一覧
1、ハル☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
2、ユウ
3、ゆいか
4、千佳(๑˃̵ᴗ˂̵)
5、みさき☆彡
6、涼子
7、LILIKO
8、さおり(^^)/
9、Kyoko_Mizuno
10、ユウト
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Kyoko_Mizunoがあるのを確認し、夏子は嬉しくなった。いつもなら上から順に始めるが、今日は9番目のKyoko_Mizunoを最初にクリックした。
Kyoko_Mizunoには12通のメッセージが来ていた。メッセージをくれたユーザー一覧のページを開いた。1時6分、ほんの数分前に来た、鈴木恵一からのメッセージがあった。夏子は鈴木恵一をクリックした。すると、このようなメッセージがあった。
17、鈴木恵一 :
なかなか変な女だなお前。
ブサイク女のくせに。
ブサイク女は本当にダメ。
せめて性格。君最悪だな。
夏子はこう返した。
18、Kyoko_Mizuno :
次はシカトしますね。
気持ち悪いよ。相当に失礼だし。
ブサイクで悪かったね。
何も知らないでよくそこまで言えますね。
あなたのような男の人に出会ったことが無いわ。
夏子は管理ホスト名一覧のページに戻り、一番上のホスト、ハル☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆をクリックした。
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ホスト名:ハル☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆(33)女性事務職 都内在住 基本はレズビアン タイプによっては男の子も対象内。休日はゴスロリで過ごす。
返信待ち : 17件
ユーザーメッセージ1 : 亮 8分前
ユーザーメッセージ2 : しーちゃん 15分前
ユーザーメッセージ3 : Sui 42分前
・・・
ユーザーメッセージ9 : Miki 1時間前
・・・
ユーザーメッセージ13 : くるみ 2時間前
・・・
ユーザーメッセージ17: いちごケーキ 2時間前
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夏子は上からどんどん返信していった。このホストへ来ているメッセージの返信は、多少大変だった。メッセージを送ってくるユーザーの数人がひどく卑猥なメッセージを送ってくる。こんなのに皆んなはどの様に返信しているんだろう。暫く色々な人の返信履歴を見て様子を伺った。
ユーザーの内の何人かレズビアンを自称している人がいたが、実際本当に女の子なのかな、などと考えながら返信を再開した。本当がどうなのか知ることができる質問があったらなと思った。
ハル☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆への全てのメッセージへ返信を終えると、また鈴木恵一の返信が気になった。
Kyoko_Mizunoと鈴木恵一のやり取りのページを開いた。やはり返信が来ていた。
19、鈴木恵一 :
お前どうせ金持ち探してるだろう。
お前貧乏人だろう。身の丈考えろ。
絶対お前しつけもろくにされてないだろうし。
お前みたいの死ぬしかない。死んでくれ。
夏子はこう返信した。
20、Kyoko_Mizuno :
ひどいよ。そこまで言われたくない。
どうせモテないでしょう。あなたみたいな人。
実際すごくケチなんじゃない?
貴方のせいですごく傷付きましたよ。
呆れてしまってため息しか出ないわ。
返信してみてから夏子は思った。これが自分の本心なのかもしれないと。そして、こんな事までしないと本心を言えないものなのかと。
続いて、ユウというホストへ来たメッセージへ返信を始めた。ユウは内気な20代の歴史好きなOL。このホストには割と深刻な悩みを打ち明ける人が多いような気がした。長文のメッセージが来ていると、とても緊張した。
特に深刻な長文な場合は、メッセージの中の限られた情報から、その人の状況を想像してみた。
実家を出てみたい地方在住の男の子には、きっと強い励ましが必要だと思った。その男の子の長文を読みながら、つい数年前の私もそうだったなと思うところが沢山あった。私が過去にしてもらったことを、少しでもこの男の子へ返してみたくなった。
22、ユウ :
私も無意識のうちに、親の意向に乗ってしまっていたの。これで良いのかなと、いや、とても後悔するんじゃないかって気づいた時には、色々な事が決まりつつあって。その時からもう動けないんじゃないか、出られないんじゃないかという絶望を急に感じ始めたの。でもね、アルバイト先の社長さんが、背中を押してくれたの。もっと自由に生きてもいいって。だから出る事ができた。私は社長のような立派な人じゃないけど、貴方の背中を押す事ができるのかな。もしできたら嬉しい。届いて欲しい。
送信ボタンを押した。
次は家の事情で彼女の家から婚約を解消させられた男性。夏子はまだ結婚したことは無いが、ふと宮本のことを思い出した。その男性はもうすでに気持ちは落ち着いているが、乾き切った気持ちが戻ってこないようだ。メッセージには、その人が現実の世界では見せられない虚しい気持ちが塗りつけられているようだった。
36、ユウ :
正直言うと、私はきっとあなたの気持ちを分かってあげられない。でもね、前に出会った人に分かるかもしれない人がいたような気がする。その人は、自分の家が自分の選んだ人と仲良くなるのをすぐに邪魔してきたんだって。その人はご老人だったけど、何十年経っても思い出すって言ってた。あの時、普通だったら、続いていたら、とか。お別れはある意味あなたを守るためならしいです。だから、恨まないで。そして、忘れないで。きっとそのご老人は、あなたにそのように言うと思います。
送信ボタンを押した。
そして定時の6時になるまでずっとメッセージを作り続けた。
退勤後、エレベーターで地上へ上る。地上階へ着いてエレベーターのドアが開く瞬間の光が好きだ。どんなに天気が悪かったとしても、地下よりずっと明るい。
この日の天気は曇りだったが、暗さに慣れた目には眩しかった。光を浴びると安心したのか、疲労感を感じた。さて今日はどこを歩いて帰ろうか、と夏子は考えた。
ビルを出て数十メートル歩いたところで不意に振り返った。西田が5メートルほど後ろを歩いていた。
「あ、今日は見つかっちゃった。」
西田は悪びれる様子もなくどんどん近づいてきた。
「隠れる気がないよね。」
「ねえ、腹すいてない?飯行こうよ。」
夏子の言葉に被せるように言った。
「行かないよ。」
「ねえ、あんたさ、髪長いの?」
西田は夏子の言葉は聞いていないようだ。
「何で?」
「昨日、服掴んだ時、、。」
「だから?」
「見せてよ。」
ニヤついている西田の右手はコートのポケットに入っていた。夏子は、西田がまたナイフを持っているのかも知れないと思った。
「いいよ。」
夏子はそう答えると、鞄から鋏を取り出した。そしてパーカーの中に隠していた髪を引き出し、左手で全ての髪の毛を束ねると、耳の下辺りからその束を切り落とした。
ギョッとした表情で通行人は行き交った。
夏子は50センチほどの長さの髪の毛の束を西田に突き出した。
「これあげるから、付いてこないで。」
夏子は西田を睨みつけた。
「要らないよ。ああ、こんなんじゃなかったのに。」
西田は泣き出しそうだった。とぼとぼと項垂れながら歩く西田の姿がセンター街の方へ消えていくのを見届けると、夏子は握りしめた髪の毛の束を近くのゴミ箱へ放り込んだ。
そしてすぐに渋谷駅へ向かった。半蔵門線の電車へ急いで乗ろうとしたが、やはりやめた。ユキさんには会いたいけれど、最近の色々な事を説明できるほど、夏子には心に余裕が無かった。
結局夏子はいつもの電車に乗った。窓に歪な髪型の自分が映った。これはこれで面白いじゃないかと思った。そして、エマにこの拙作な髪型を早く見せたくなった。