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インタビュー:シモン「バレーボールのNBAと言われる『SuperLega』では、すべての試合に強い気持ちで臨まなければなりません」

元記事:https://thececco15.com/robertlandy-simon-ahora-luciano-solo-piensa-en-ganar-y-eso-es-lo-que-mas-me-gusta/

見出し写真:LUBE Volley

※翻訳はあくまで趣味の範囲であり、誤訳が含まれる可能性もあることを了承いただきお読みください。

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11月はロベルランディ・シモンにとって特別な月です。9年前の2012年11月9日、キューバ人のシモンは待望の移籍を果たし、彼にとって初めてのプロチームであるCopra Elior Piacenzaの選手に。彼は自国のナショナルチームの代表を続けるためにキューバのチームを辞め、それが新しい人生を始めるための最後の正式なステップとなりました。

先週の日曜日(2021年11月14日)、13番のLube Civitanovaのシャツを着た男は、MBとしては立派な18得点を挙げ、強豪Modenaとの試合でMVPを獲得した。

その大きな両腕で、数え切れないほどのチームでの表彰や個人賞を受賞した『ランディ』は、かつてPiacenzaでルチアーノ・デチェッコとチームを共にしました。彼らはバレーボールのNBAと言われるSuperLegaで成長しようとする若者でした。それから約10年、SuperLega・クラブワールドカップ・欧州チャンピオンズリーグなど、すべてを目指すチーム「Lube」には、称賛の声と同時に責任の重さも感じています。

ここでは、キューバ人MBのインタビュー第1弾として、3大陸のクラブでプレーしてきたエキサイティングなキャリアを、The Cecco15チームとともに振り返ってみたいと思います。

ールチアーノとのPiacenzaでの思い出を教えてください。

とても楽しかったです。当時の私たちは責任を負うことが少なかったのです。バレーボールをすることは、生計を立てるための公平な手段であり、仕事であると同時に、楽しむための手段であり、人生を違った角度から見るための手段でもありました。私にとっては新しい世界でした。当時は半年間プレーしていませんでしたし、イタリアでしばらくトレーニングをしていましたが、試合ではどのようなものになるのか経験がありませんでした。

また、経験豊富な選手が多く、監督がトレーニングを少し減らすことにしたため、自由な時間がたくさんありました。映画館に行ったり、お酒を飲んだり、食事をしたりしました。私たちはとても楽しんでいました。

ーラテン系であること、そして何よりも同じ言葉(スペイン語)を話すということが、デチェッコとあなたを自然に近づけた要因なのでしょうか。

主な理由はそうだったと思います。当時、私のイタリア語もあまり流暢ではなかったので、彼とのコミュニケーションの方がずっと楽だった。
2人ともスペイン語を話し、年齢も同じくらいだったので、親近感を持ちやすかったのです。お互いに独身だったので、遊びに行くこともできました。いろいろな偶然が重なったのです。

シモンとデチェッコは、Copra Elior Piacenzaでイタリアのバレーボール界の栄光を共にしました。当時チームにいたのはサミュエル・パピ、アレッサンドロ・フェイ、フリスト・ズラタノフなどです。そのチームで、2012/13年の欧州ChallengeCupと2013/2014年のCoppa Italiaを制覇しました(ルチアーノは決勝戦のMVPでした)。

ー当時の思い出深い話はありますか?

一番印象に残っているのは、彼が初めて私を素敵な場所に連れて行ってくれた時の記憶です。私たちはディスコに行ったのですが、そこではほとんどの人がとてもエレガントでした。キューバから出てきた私は、経済的にも服装的にも多くの条件が揃っていなかったので、最初に手に取ったものを着ていきました。彼は私に何も言わなかったし、彼自身はとてもエレガントだった。そして私は「お願いだから、ここから出よう」と言いました。最終的には私たちは会場の中に入り、私は一晩中悲しみに暮れました。そして彼に言ったんだ。「もうここには来ないよ」と。

ーそれから何年も経って、運命的に、より大きな責任を負うことになりますが、同じチームで再び一緒になることになりました。その関係はどのように変化しましたか?

今では関係はずっと良くなっています。今はもう私たちは大人ですから、自分たちの責任を理解していますし、チームは私たちにもう少し多くのことを要求しています。Piacenzaでも勝ちたいと思ってプレーしていましたが、今のようなプレッシャーはありませんでした。 今のLubeでは「勝ちたい」と「勝たなければならない」は違っています。

そして私たちには厚い友情があります。何年にもわたって、韓国やブラジルでプレーしてきましたが、いつもお互いに手紙で「どうしてる?」と会話も弾みました。そしてルチアーノがここLubeに来て、すばらしく快適になりました。今は経験を重ねることですべてがやりやすくなりました。

ールチアーノと同じチームでプレーすることの醍醐味は?

彼は大きく成長しました。今、ルチアーノは勝つことだけを考えていて、それが私の一番好きなところです。実際に世界一のセッターになることもできますが、頭の中に「勝ちたい」という気持ちがなければ、目標を持つことはできません。私は、目標を持ってプレーする人が好きです。

私たちはすべての試合に勝つために働くつもりです。そしてそれらは、何年もかけて学ぶものです。彼はそれをしっかりと学びました。チームは私たちに多くのことを求めていますし、逆に私たちはチームに多くの貢献をしています。彼の頭は集中していて、トレーニングに励み、常に勝ちたいと思っています。

ーメンタリティだけでなく、攻撃面でも2人には大きな繋がりがあります。ルチアーノの特徴は?

彼には天性の才能が備わっていて、生まれつき『ファンタスティック・ハンド』を持っています。それに加えて、彼はハードなトレーニングを行い、欲望を持っています。それがプラスになる。才能と努力があれば、それは素晴らしい組み合わせなのです。

ー2人とも優れたバレーボール選手であり、バスケットボール選手の息子であるという、驚くべき偶然があります。

そう、私の母と父はバスケットボールの選手でした。そして私もバスケットボールをしていましたが、スポーツを変えなければなりませんでした。ルチアーノとは、PlayStationでバスケットボールをしていましたが、今はコールオブデューティー(シューティングゲーム)をよくやっています。私たちがバスケットボールで遊ぶことがあったら、ルチアーノはシュートを打つのが好きで、私は体を動かすのが好きです。私たちは楽しむことが好きなのです。でも、間違ったことをしないようにも気をつけています。身体のケアに気をつけていますからね。


ーチーム内の親和関係についてお聞きします。他の2人のキューバ人(ユアントレーナ。ヤント)と一緒にLubeでプレーすることはどれほど特別なことなのでしょうか。

キューバ人選手の質は非常に高く、彼らがチームにいることはポジティブなことです。彼らはとても陽気で、とても謙虚で、勤勉な人たちです。それが日々の生活に大いに役立っています。また、言語も重要です。それは、ルチアーノも同じです。ゲームの途中で、時にはサインを出さないこともあります。頭、鼻、胸、2、1......と言葉にしていくんです。これらは一瞬のうちに起こることです。当然のことながら、イタリア人と話すよりもかなりスムーズに会話をすることができます。

ー外部からの要求だけでなく、タイトルを取り続けるという野心をどのようにフィードバックしているのでしょうか?

勝ち続けることは難しいですが、努力するしかないですね。トレーニングが楽しくなければ、試合で実践することはできません。全てを勝ち取るという気持ちで臨むべき場所は、まずトレーニングです。

なぜなら、他の人たちも同様に準備しているからです。他の人たちも私たちを倒すことに飢えています。そして、私たちは負けたくありません。ここイタリアでは、すべての試合に強い気持ちで臨まなければなりません。そうしないと負けてしまうからです。世界の他のリーグではありえないことです。

ーイタリアのSuperLegaはバレーボールのNBAと言われていますが、中でもレベルの高い均一化が注目されているのでしょうか?

他の国のリーグでは、トップチームが3・4チームあって、そのチーム同士の対戦で勝ち負けが決まります。それ以外のチームに対しては、通常のスターティングメンバ―はベンチスタートです。しかしイタリアではそれができません。イタリアでは常に他チームのプレーに驚かされるのです。誰に対しても油断はできません。弱いはずのチームは失うものは何もなく、すべてが自分たちの思い通りになる時が来るのです。

ーイタリアのSuperLegaは、他にどのような点で優れていますか?

インフラはポーランドやロシアと似ています。
ここでの違いはリーグのレベルです。おそらく、1チームあたりの外国人の数も多いからでしょう。例えばロシアでは1チームに2人の外国人しか入れません。 そして、ロシアはここイタリアよりもずっと寒いので、選手たちはロシアに行くよりもイタリアに来ることを好むのです。
また、イタリアではインフラが整っていて、ほとんどのチームが同じ設備を提供しています。バレーボールに集中できる環境があることは良いことだと思います。

ーヨーロッパ、アジア、南米でプレーした後、イタリアに戻ってきましたね。故郷を離れての初めての経験はどれほど大変でしたか?

それが一番辛かったですね。23歳のときで、家族と離れることに慣れていなかったので、とても苦しみました。最初の年末は一人で過ごしました。自分の人生をより良いものにするために、多くの時間を一人で過ごしました。最近は少し慣れてきましたが、家族と一緒にいるときや、飛行機に乗ってここに来るときは、毎回、かなりの苦しみを味わいます。

寒さも複雑でした。 私はずっと暑さの中で生活していたので、終わりのない冬に来たことはとてもショックでした。そして、食べ物の違い!実際にその国に来てみると違う世界が広がっていて、とても衝撃を受けました。時間が経てば適応します。私が適応できないのは、辛い食べ物だけです。

クラブレベルでは、キューバ・韓国・ブラジル・イタリアの各リーグで優勝しました。クラブワールドカップには、カタールのAl Rayyanで1回、ブラジルのSADA Cruzeiroで2回、Lubeで2回、計5回出場しています。来年12月にはさらにLubeで3回目となり、キャリアで6回目のプレーをする予定です。

ー韓国とカタールでプレーしましたが、それぞれの経験から何を感じましたか?

カタールでは1ヶ月半と短かったのですが、ホテルに住んでいたので静かで、食事もかなりバラエティに富んでいました。ただ彼らには独自の文化があって、お酒は飲めないし、一定の時間を過ぎないと滞在できないのです。生活は機械的なものでした。アジアではかなりの衝撃を受け、6キロほど痩せました。最初は食べ物に馴染めませんでした。キューバ料理からイタリア料理への変化への適応も終わっていなかったので、頭の中はカオス状態でした。毎日のように白米と肉を一緒に食べていました。これは心理的にも良くないことでした。私は変化に富んだ風味豊かな食べ物を食べる必要があるのです。韓国での最初の頃は、それがとても大変でした。最終的にはついに母と当時の彼女が来てくれました。でもとても大変でした。韓国ではチームでレストランを運営していたので、料理人も徐々に料理ができるようになっていきました。そして、すべてが変わり始めました。

ーブラジルは全く問題がなかったのでしょうか。

ブラジルは、まるでキューバにいるようでした。食文化はとても似ていますが、バラエティに富んでいます。私たちと同じように、米と豆があります。
でも、肉は何百万種類もあります。彼らはラテン系なので、より快適で、すべてにおいて過ごしやすかったです。路上で2人の友人に出会い、友情を育むことは「momentico」と呼ばれています。
ビールを飲みに行って、次の日には一人と会って、一人の家で会って、また一人の家で会って......という具合です。とても慌ただしい生活でした。
友達が連れて行ってくれたから、もう友達になっていたからという理由で、知らない人の家に行ったりしていました。

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