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2011年前後の記憶

2011年に起きた東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)から、今日で13年になる。
私自身はその震災によって特に被害を受けたということはなかったのだが、今回はその当時の自分を振り返り、記憶からなくなる前に記録しておきたいと思う。


友達と縁を切った訳

2011年の3月、私はちょうど中学1年生だった。
地元の公立中学校に入学してから11か月ちょっと、あと1か月で2学年に進級するというところだった。

小学生の頃には数人だけ友達がいた私だったが、中学校に入ると同時に、今までの人間関係を全て清算し、全員と縁を切った。
縁を切るというと大げさだが、中学生になってからはかつての友達と喋ることはほとんどなくなり、1人で過ごすことが当たり前になっていた。
では、なぜ友達と縁を切ったか?
端的に言うと、付き合いが面倒くさいと感じていたからだ。

自分のやりたいことよりも友達を優先して、いつも彼ら友達に付いて歩いていなければならない。
一時は「親友」と言えるような間柄の友達もいたにはいたが、基本的には自分という存在はいてもいなくても大して変わらなくて、それなのにわざわざ友達関係を維持する意味はあるのかと考えるようになった。
それで中学生になったことをきっかけに、友達ゼロを貫くことにしたのだろう。
中学、高校、大学、そして今に至るまで私は友達が1人もいない状況が続く。その原点は、中学1年の春。つまり2010年の4月だった。

友達がいないと言っても、中1の頃の自分はまだ明るかった
意味もなく早朝から学校にやってきては、先生に「いつも早いねえ」と言われたり、(うろ覚えだが)他の生徒が来る前から教室の掃除をしたりしていて、学校に行くのが楽しかった

しかし、中2になったくらいのタイミング、つまり2011年の4月以降、私の性格は急激に暗くなった。今のような根暗で、常に不安感や焦燥感が頭の中を駆け巡っているようなメンタリティになってしまった。

なぜ変わったかはよく分からない。
中2というのはちょうど思春期の始まり。思春期に伴う第二次性徴によって性格が変わったのか、それとも学校で何か嫌なことがあったのか。

性格が急変した中学2年

確かに、私は中学2年の頃、学校でかなり嫌な目にあっていた。
同じクラスの数人の男子生徒から目を付けられ、事あるごとに悪口を言われたり、嫌がらせをされたりするようになった。
暴行や脅迫、金品を奪われるといったことはなかったし、実は小学生の時も少し虐められたことはあったので今回が初めてではなかったが、私は学校に行くのが嫌になり、早朝から登校することはなくなった。

当時は学校のすぐ近くのアパートに住んでいたから、始業時間が8時15分だったら8時10分に家を出るという感じで、ギリギリ遅刻にならない遅さで登校していた。

毎日の通学が嫌で嫌で仕方がなかったが、特にしんどかったイベントが、京都・奈良に行った修学旅行

JR京都駅近くにある宿の大部屋に泊まっていた私は、その日の夕飯で醜態を晒してしまう。
夕飯はすき焼きで、生卵を割らなければならなかったのだが、当時から手先が不器用だった私は、卵を割るのに失敗し、畳を汚してしまった。

何とかして誤魔化そうと思ったが、すぐに他の連中に気づかれ、宿の方が部屋にやってきて卵の処理をしてくれた。

その時、同じ部屋に泊まっていたアニメオタクの男子生徒(「キングオブコメディ」の今野に顔も声もそっくりだった)に、「お前さ、(宿の人に)礼くらい言えよ!」と言われたことをよく覚えている。

咄嗟にお礼が言えなかったのは事実だが、緘黙持ちでなかなか声の出ない私が、赤の他人に対してお礼を言うというのは困難なことだった。

結局すき焼きはほとんど食べることができず、豆腐や野菜ばかりを食べていた。

嫌な思い出ばかりが出てくるが、みんながみんな私に対して当たりが強かったわけではない。
憂鬱
な面持ちで校門をくぐり、校舎まで歩いていた時、フィリピンハーフだと言うヤンキーの男の生徒に話しかけられたことがある。
何と話しかけられたかは不明だが、女子生徒のことを聞かれたような。
色々と多感な中学生だから、隙あらば異性の話をしたくなるのだろう。

彼は他の生徒を虐めることはあったが、私にはなぜか好意的だった。
全校集会の場で大声で下ネタをかましたり、突然キレて教師と一触即発になったりしていた男で、一応高校には進学したらしいが、その後のことは不明だ。
自分よりよほど社会性のある人間だったし、反社会的勢力に行くようなタチでもなかったから、普通に生きているはずだ。

そいつは間違いなく教師には嫌われていたと思うが、私は割と良いヤツだと思っていた。他にもヤンキーは何人かいたが、何れも極悪人はいなかった。
私の住んでいた地域が反社も半グレとも無縁な田舎だったからかもしれないが、実際は他の中学校はそこそこ荒れていたこともあって、ある時(10年くらい前)には、校舎の窓ガラスが数十枚にわたって割られるという事件が起こったこともあった。
それに比べれば私の学校は平和で、素行の悪い人間は少なかった。

結局私に対する虐めがどれくらい続いたかは忘れたが、確か中3の頃には全く虐められなくなったと思う。虐めが解決したのか、それとも時間が経つにつれ徐々にフェードアウトする形になったのかも覚えていない。

幸い不登校に追い込まれることはなく、無事学校に通い続けることはできたものの、あの虐めを受けた中学2年を境に、私の性格が大きく変わってしまったことは確かだ。

学校一「変人」が多い部活に居た

私には友達こそいなかったが、一応「仲間」と呼べる人たちはいた。
これは高校、大学、そして現在とは全く異なるポイントだ。
今は仲間と呼べる人もいない。

中学入学時からある文化系の部活に所属していて、そこの部員が仲間であった。友達と言えるほど深い付き合いはなかったし、部活以外で逢うこともなかったが、ともに何かに取り組んでいた。
そして彼らが、私に対して気兼ねなく話しかけてくれていたという意味では、仲間と言って差し支えなかった。

私の所属していた部活は、学校でも特に「日陰者」が集うと言われたところであった。中学では基本全員が部活に入ることになっているらしく、(実際は違ったのかもしれないが)嫌々入ったのが始まりだ。
部員の面々は、もちろん全員が男
私のように口数が極めて少ない人もあれば、アニメキャラが描かれた扇子を扇いでいる人、顔は良いのだけど他の部分が欠落していて、凡そ女子にはモテないだろうなという感じの人まで、個性的な人ばかりであった。
中1の頃は、そんな雰囲気に圧倒されてしまい、部活をサボることもしばしばあった。
サボっても上級生や顧問から咎められることもなく、それが却って残念であった。

結局中1の途中から部活に復帰し、それからはほぼ毎回参加するようになった。
中2になると、上級生が卒業したことで部員の数が急に減ったため、部活はかなりやりやすくなった。
先輩は1人だけ。同学年の人も自分含めて2人だけ。
ちなみに、その同学年の人(Y君としよう)がかなり個性的な人で、まあ個性的過ぎて先述のヤンキーに目を付けられている人でもあった。
そして後輩(中1)は3人であった。もちろん全員が男子だった。
後輩にもなかなか変わっている人がいて、部員の中では一番コミュ力があり、有能だなと思っていた後輩が、実は不登校経験があると知って驚いたことがあった。

中2の頃、部活でどんなことをしていたかはあまり記憶にないが、パソコン室でWindows Vistaのパソコンをいじっていたり、先輩とY君が話しているのをこちらは黙ってぼーっと見ていたりと、楽に過ごしていたように思う。

先輩は何か特徴的な口癖があって、(何だったかは失念した)Y君はいつも片方の手を顎に当て、目を細めながら喋っていた。
顧問の先生は、痛風を患っているという中年の男性教師で、いつも朗らかな感じの人だった。目がクリクリとしていて、こちらを見た時に分かる目の大きさが印象的だった。

私が中3になった時、当然ながらたった1人の先輩は学校を卒業した。
ちなみに、先輩の友人は相撲をしている人で、今も力士として相撲を続けている。何回かその人が部室に来た事があったが、確かに大きな体をしていたことを覚えている。

私とY君の2人が最高学年となり、Y君は部長、私は副部長となった。
とはいえ副部長なんて肩書は全くのお飾りで、私はほとんど何もやることがなかった。
その年の新入部員は、驚くことに女子2人組であった。
1人はメガネをかけていて、「封神演義」という漫画を愛好していた。
もう1人は裸眼で、何となく少年のような可愛らしさがあった。
学内でも特に変わり者が集まる私の部に、女子が入ってきたというのは本当に異例のことだったと思う。
人を見かけだけで判断しない女性というのもちゃんといるんだな、と思った。(私もY君も、お世辞にも異性から興味を持たれるような風貌ではなかったし、口も達者ではなかったから。)

中3の時の部活動は、高校受験もあったからあまり熱心にはやっていなかったと思う。Y君の相棒的ポジションだった先輩もいないので、何となくY君がつまらないと思っているんじゃないかと思い、まともに会話のできない自分が嫌になった。

中学を卒業するとき、後輩が私とY君のために、寄せ書きを作ってくれた。
あの時は正直言って特に感動するといったことはなかったのだが、今になって振り返ってみると、涙が出てきそうになる。

東日本大震災の起きる直前

以上、中学時代の印象に残っている記憶を引き出してみたが、ここからは東北地方太平洋沖地震が起きた、2011年3月11日の前後を振り返ってみる。

東日本大震災の起きる数日前のことは、ほとんど覚えていない。
唯一覚えていることと言えば、インターネット掲示板の2chで、茨城県の海岸にクジラだかイルカだかが打ち上げられたというニュースを見たことくらいである。

おそらく、このニュースだろうか?
何となく不穏な感じがしたことを覚えている。

東日本大震災が起きた日

3月11日の午後14時頃、学校では所謂「総合的な学習の時間」が行われていた。私たち中学1年の生徒は皆、多目的ルームと呼ばれる大きな部屋に集められていた。

その部屋に、「瞽女(ごぜ)」として活動されている方々が来られた。

瞽女とは旅芸人のことで、目の見えない女性が、三味線などを使って各地を演奏して回っていたという。

私の地元はその瞽女に関する文化と関係があるらしく、総合の授業で瞽女をされている方をお呼びすることになった。

授業が行われていた時、14時46分に三陸沖でモーメントマグニチュード9.0の地震(東北地方太平洋沖地震)が発生した。

この地震が起きた時の映像(NHK)を確認してみると、緊急地震速報宮城、山形、福島、岩手、秋田の各県で発表されていた。

おそらく、現在のシステム(Plum法)なら、対象地域が関東、新潟、長野などへと広がっていたと思う。

↑の動画は、Plum法が使われた緊急地震速報(2022年3月:福島県沖地震)。対象地域が徐々に広がっていく様子が分かる。

東北地方太平洋沖地震では、緊急地震速報は東北の各県でしか発表されていなかったため、私の地元である新潟では特にアラートは鳴らなかった。
瞽女の方による話が行われている途中、私は突然眩暈のような違和感に襲われた。しばらくして、それが地震だと気づいた。

私には友達はいなかったが、隣に座っていた同級生(I君)に『地震だよね?揺れてるよ』と話しかけたくなるような衝動に駆られた。
(実際は話しかけなかったが、ASDで緘黙のあった私が、他人に話しかけようとしたということは、相当精神的に高ぶっていたことを意味している。)
長々とした、酔うような揺れを感じて、私は非日常を体験した時のように、半ばハイになっていた。

幸い、私の住む地域は震度4で、地震による被害はなく、津波の心配もほとんどなかった。(津波注意報は出ていた)
しかしながら、学校側は授業を中断し、生徒全員を体育館に集合させた。
おそらく、職員室かどこかでテレビの報道を見て、とんでもない大災害が起きたことが分かったからだろう。

その後のことはあまり覚えていない。
おそらく体育館に集まってから、先生による簡単な話があって、その後は放課になったのだと思う。
前述の通り、私は学校のすぐ近くのアパートに住んでいたから、すぐに家に帰った。
それからは、おそらくテレビに映る凄惨な光景に目を奪われることになったと思うが、その時のことも全く覚えていない。

東日本大震災当日の夜~翌日:長野県北部地震

2011年の3月11日は金曜日だった。当然翌日は休みである。
もし3月11日が金曜以外の平日、もしくは日曜であったなら、翌日の学校は休みになったのだろうか。
私の住むエリアは東日本大震災の被害はなかったし、後述する長野県北部地震でもほとんど被害はなかったから、学校は通常営業だったと思う。

私は中学、高校生の頃、週末はいつも夜更かしをしていた。
だいたい午前1時~2時くらいまで起きて、ニコニコ動画を見たり、深夜アニメを見たりしていた。
夜更かしをすると当然起床が遅くなる。午前11時に目を覚ましては、「休みの半分を無駄にした!」と絶望的な気分になったことは数知れず。

ちょうど東日本大震災があった2011年冬は、面白い深夜アニメがたくさんあった。
特に流行っていたのは、「魔法少女まどか☆マギカ」だが、私はその作品には興味がなく、(当時から天邪鬼な性格だった)「これはゾンビですか?」というアニメが好きだった。

あの頃はライトノベルもよく読んでいて、「涼宮ハルヒの驚愕」が発売された2011年の5月には、発売当日の夕方に本屋(現在は閉店)まで買いに行き、その日のうちに読破したことを覚えている。

当時はニコニコ動画で「公式」のアニメ動画がアップロードされていて、地方でも深夜アニメを見ることができた。
夜な夜な動画に流れるコメントとともに深夜アニメを見るのが、至福の時だった。

2011年前後、動画サイトと言えばニコニコ動画だった。
深夜0時になると、「時報」が流れるという仕組みがあって(今もあるかもしれないが)、そのタイミングになるとリアルタイムでコメントが書けた。同じタイミングでたくさんの人がコメントをしている!という一体感を感じられた。

東日本大震災が起きた日の夜も、私はニコニコを見ていた。
その時は、「ニコニコ生放送」(ニコ生)で、NHKの公式配信が放送されていた。

今ならNHKの公式サイトか、もしくはYouTubeで流すことになるのだろうが、当時は日本を代表するストリーミングサイトと言えばニコ生だった。
未曾有の大災害が起き、NHKがニコ生というプラットフォームを使って総合テレビを配信し始めたのである。

私の家は全く無事で、テレビも見ることができたが、その夜は何故かニコ生でNHKを見ていた。
翌日は休みだし、こんな大災害が起きているのに寝ていられるか!と思った私は、ひたすらNHKを見たり、2chの「臨時地震板」などを確認したりして、地震の情報収集に努めた。

その翌週か忘れたが、学校で「先週は何をしていましたか?」という質問に文章で答えることがあって、その時には「夜通しで地震の情報収集をしていた」と書いた覚えがある。

深夜になってもパソコンに張り付いて、地震の被害状況を確認していた。
普段なら1時か2時になったら寝るのだが、この日は非常事態だったから、朝まで起きているつもりでいた。

そして3月12日の午前3時59分、突然大きな揺れが私を襲った。
長野県北部を震源とする、マグニチュード(Mj)6.7、最大震度6強の地震(長野県北部地震)が起きたのだ。

突然の大揺れに見舞われ、私はパソコンが置かれた机を掴み、何とか体勢を維持していた。震度5強の強い揺れだった。
幸い停電はなく、モノが落ちる以外は特に被害はなかった。

長野県北部地震でも緊急地震速報が発表されていて、私の住む新潟も対象地域に入っていたのだが、当時の記憶によれば、私は速報には気づいていなかった。

たまたまニコ生(NHK配信)から目を離していたのか、それとも眠気で集中力が切れていたのかは分からないが、速報に気づかなかった原因は未だ不明だ。

対岸の火事と思っていた地震が、突然自分の住む地域で発生し、私は突然気分が悪くなってしまった。
もう午前4時になるから寝ようと思い、結局朝まで起きることはやめてベッドに入った。

その後も、何回か余震があった。
午前4時31分にあった余震(最大震度6弱)は、特に大きな余震だった。
かなり怖かったと思うが、流石に眠気には勝てなかったのか、4時半の余震があった後に、私は眠りについた。

「炉心融解」MAD動画について

東北地方太平洋沖地震による福島第一原子力発電所の事故を契機に、「炉心融解」というボーカロイドの楽曲が注目を集めるようになった。

「不謹慎」と叩かれたのか、「未来予知」と言われたのかは知らないが、いずれにしてもこの曲が世間により知られるようになったのは確かである。

原発事故の起きた頃、ニコニコ動画に「炉心融解」のMAD動画が投稿された。

枝野官房長官に炉心融解歌わせてみた」という動画だ。
これは当時の枝野官房長官の声を使って、炉心融解を歌わせるというMAD動画なのだが、当時の私はこれを気に入って、何百回も聴いた。
虐められた中学2年の時も、この動画を聴いては元気を貰えたような気がしていた。

原発事故をネタにしてMADを作る、不謹慎だと見なされる内容かもしれないが、私には特にそうは思えない。
原発事故や被災地を笑いものにしているわけでもなければ、当時寝る間も惜しんで働いていた枝野官房長官を侮辱したような内容にも見えない。
人によっては侮辱したり、馬鹿にしたりしていると思う人もいるかもしれないので、これは感じ方の問題かもしれないが、私は問題のある内容とは思わなかった。

当時の自分はまだ中学生で、今と比べれば全然理性的な思考が出来ていなかったから、もし今この動画を初見で視聴したら、180度違う感想になるかもしれない。

枝野氏の声を使った歌声は、原曲の鏡音リンと比べると決して上手いものではないが、その非常に高い声色の鏡音リンと比べると、枝野氏のそれは男性的な低い声で、それはそれで耳心地の良いものだった。

このMADをきっかけに、「炉心融解」という楽曲がかなり好きになった。
虐めを受けて若干病んでいた私は、この曲が内包する暗く澱んだような雰囲気が好きだった。
辛い気分だからこそ、思い切りドン底までメンタルを沈ませることによって、却ってストレスを発散できるという感覚を初めて覚えたのは、ちょうどこの頃だっただろう。

学校が嫌になり、虐めを怖がりながら生活していた自分にとって、この曲はメンタルの不調をどう解決していけば良いかを教えてくれる存在になったと思う。

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