【コラム】私にとっての神社仏閣参拝の意味
今日は自分自身にとっての神社仏閣参拝の意味(意義?)について考えてみたいと思っています。
私の家は日蓮宗ですが、特に特定の宗教を深く信仰しているわけでもなく、八百万の神として、幼少時代から多くの神社仏閣を参拝してきました。
自己紹介にも書いたように、神社仏閣参拝は父の影響が大きいと思っています。
父と巡った坂東三十三か所巡礼が私の神社仏閣参拝のルーツだと思っています。
神社仏閣には日本人のルーツがある
なぜ私が神社仏閣に魅了されるのか?
その一つが、各々の神社仏閣が、古くから地域の人々の信仰を集め、時の権力者から篤い保護を受け独自に発展してきた、「深い歴史」があるからだと思っています。
人々が心の安寧や平和、五穀豊穣といった祈りを神社仏閣に捧げ、現代のような合理的な世界となる前の、まさに目の前の生活の充実を神社仏閣に対して祈りを捧げてきたわけですから、その土地には独自の神聖性が存在し、何人であっても心休まる空間が醸成されていると思っています。
また、時には死後の安らぎを祈り、亡くなった親族の安らかな眠りを祈るという、生と死の間に神社仏閣が存在していました。
私自身、神社仏閣の独特な静寂さと、その神聖性に魅了されているのだと思っています。
巡礼と御朱印
神社仏閣を参拝した証に御朱印をいただきます。
巡礼としては、四国八十八か所を満願し、次いで秩父三十四か所を満願しました。
また、現在は坂東三十三か所や西国三十三か所。
そして、全国一宮や神仏霊場を巡礼しています。
御朱印はスタンプラリーのスタンプではなく、仏閣においては経を納め(納経し)、その証としていただく寺印でした。
現代は納経しなくても御朱印をいただくことができますが、御朱印はまさに信仰の証であり、神仏の化身ということができると思っています。
私自身、短期間の行程だと、どうしても御朱印をいただくことが自己目的化し、かなりのペースで(1日10社もいただくことも!)参拝することがあります。
ただ、本来は一つ一つの神社仏閣に赴き、心を休めて神仏と向き合い、その証として御朱印をいただくことが本当の姿だと思っています。
趣味の写真撮影との親和性が高かったです!
こちらも自己紹介でご紹介させていただきましたが、私自身、これもまと父の影響からか、写真撮影が若年のころから趣味でした。
神社仏閣は今風の言葉で言えば、「ばえる」造形を必然的に醸しており、写真の被写体としては絶好といえると思います。
なので、趣味である写真撮影と、神社仏閣参拝の親和性は極めて高く、御朱印帳とカメラをもって、全国津々浦々の神社仏閣を参拝しています。
神社仏閣参拝をライフワークとしてゆきたい
神社仏閣参拝を本格的にはじめて20年超が経過しています。
これはもはやライフワークといっても過言ではないと思っています。
趣味の旅行、そして写真撮影。
そして心の静寂をもとめて神社仏閣参拝。
すべてが私自身の心を満たしてくれており、生涯のライフワークとして最適だと思っています。
正直、御朱印帳は溜まってゆく一方で、もし私が死んでしまったら、この収集癖(記念コインなどの収集癖があります)については遺族は困ってしまうでしょうが、棺桶に入れて燃やしてもらうつもりで今後も神社仏閣参拝を続けてゆきたいと思っています。