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動植物と切り離された生活

人工物に囲まれていませんか?

環境問題への関心やゴミがポイ捨てされている近所の道に違和感を覚えて勇気を出して始めたゴミ拾い。帰宅する頃には、味わったことのない気持ちよさや晴れ晴れした達成感に包まれた。あの瞬間からわたしは、自分と向き合い自分の軸で生きることができる別世界に降り立った。小さな一歩だったかもしれないけれど、やりたいことを成し遂げたことによる自信もついたし、自分が社会の一部として他者に貢献できているんだ!と教えてもらえて、心からの感謝でいっぱいになった。そして、まだゴミ拾いがわたしに与えてくれたものがある。

それは自然との調和。

人生のほぼ全ての時間を自宅の狭い部屋と勤務先の事務所で過ごし、移動といえば、車や電車、バスだし、友人と遊びにいくのは商業施設やレストラン、居酒屋。趣味は読書やネトフリで籠ること。この列挙のどの部分にも自然環境が登場していないことがお分かりいただけるだろうか。そしてわたしのこの生活とほぼ同様の生活様式の人がどのくらいいるだろうか。人生のほぼ全ての時間で大自然とつながり合っていない状況だ。ゴミ拾いを始める前のわたしはこれが日常だったし違和感も覚えていなかった。木々や花、動物や昆虫たちの存在を忘れていたわけではなかったけれど、彼らのことを思い出すのはサラダを食べるテーブルの上か、殺虫剤を使う時くらいに限定されたものだった。しかも彼らへの尊厳やつながり、感謝など微塵もなくただそれが当然かのように扱っていた。人工物に囲まれる生活が当然であり標準設定となっていたわたしにとって、大自然への感謝は無縁のところにあり、それの恩恵も意義も重要性も感じることができなくなっていたのである。

ゴミ拾いがそっとわたしに示した自然。

そもそも環境問題に関心を持った時点で、森林伐採や生物多様性の危機なるものはPCで学んだし、海が死にかけていることも理解はしていた。でもそれは地球のどこかの話であり、見えない知らないどこかのためにわたしが生活を改める必要があるんだな、と決めて混んでいた(と思う、当時は)。そんな思いから身近にあるゴミを拾い出したわたし。

太陽と風、揺れる草花と鳥の囀りの近さに驚いた。

自宅から一歩外に出て、時間を気にして駅に向かうのではなく自由な道のりを歩いて帰ってくるという行動は、ゴミ拾いが初めて。所謂お散歩みたいなこともしたことがなかった。だから、外を歩くだけでこんなにも大自然を感じることができるなんて衝撃的だった。

部屋の天井に可能性を押し潰されることなく、どこまでも遠くに感じる空にわたし自身のちっぽけさを味わった。これは決してネガティブな表現ではなく、どこまでも上に上に伸びていくことが許されているような包容されている感覚。背筋を時々ぐーんと伸ばしてみることで、「それでもまだわたしは小さな存在だ」と、もっと挑戦できることが確認できた。放った呼吸が壁にぶつかってすぐさまわたしに帰ってくることもなかったし、吐き出したため息はどこまでも飛んで見えないところへと吸収されていくような気がした。今まで過ごしてきた空間が、いかに狭くて自分を追い込んでいたのかを思い知り、土手の中腹にしゃがみ込んでポロポロ泣いてしまったこともある。

大自然よ、ありがとう。

「苦しかったわ…」

しゃがみ込んだ土の上に、わたしはそんな言葉を漏らしていた。本当はわたし苦しかったんだ、本当はわたし我慢してたんだ、本当はわたし…って、おいおい泣いた。対照的に太陽が温かくわたしを見守り、照らし続けてくれているというのに。

冬晴れがわたしの鼻先を赤く染め、ツーンと空気を澄み渡らせる冷たい風が大好きになったのは、あの日自分自身を解放できたからだと思う。

ゴミ拾いに出かけて、気が付いたらわたしは大自然に囲まれていて、勝手に癒され勝手に解放してしまったのだ、自分自身を。

大自然がわたしに享受してくれる壮大なエネルギーの存在をはっきりと体感したことで、彼らへの心からの敬意と感謝が溢れ出した。

ありがとう、大自然。

どんな本や知識よりも、味わうこと。

自然への感謝やありがたみって、誰もが聞いたことがない話ではないはず。光合成や熱、とかそういう化学的なことだけじゃなくて、癒しや私たちを間もる効果についても、みんなわかってはいるはずだ。

わたしもその1人だった。

ただそれをわざわざ体感してなかっただけ。理論上の理解にとどめ、真にその意味を魂で味わうことに必要性を感じていなかっただけ。というかそもそも自然は窓から見ているし、観葉植物には水やりしてるし、日焼けしないようにケアしているくらい太陽の存在については知っている、くらいに自然とのつながりをとらえていた。

でも、ゴミ拾いが気付かせてくれた、大自然との「真のつながり」を。

土の地面に立ち、太陽と一直線に向き合い、耳を澄ませて草木や川の動く音を感じて、遊ぶ風を肌でなぞるという「真のつながり」の絶大な効果を。この時、きっとわたし自身が大自然の一部になっている。切り離されていたピースがそっと寄り添い合うように、大自然の柔軟性と包容力で、わたしが大自然の一部になることが許され、調和できたのだ。

そこに数値化など存在せず、ただただ涙を流し素直になり希望を見出してまた一歩前へ歩き出しているわたしが存在しているだけだった。でもそれが全てであり、自然とのつながりをもっと生活に取り入れていきたいと決める根拠となった。どんな本の知識や誰かの解説よりも間違いない根拠。

後から知った「アーシング」

この出来事のずいぶん後になるが、友人からアーシングについて聞いた。人間が溜め込んだ電磁波を地球が回収してくれるというもの(もっと詳しくちゃんとした言葉で知りたい方は調べてほしい)。「あぁやっぱりそういうことだったのね。」わたしのリアクションはそれだけだった。

わたしがゴミ拾い初日から体験したあの気持ちよさの中には、大自然とコネクトしたことによるリラックスや電磁波が整ったことによる効果があったんだと、後になってから知ったことはまだまだある。

意図せずわたしの人生をどんどん輝かせてくれる、ゴミ拾い。
一つの効果がまた別の効果を生み出す、どんどん加速度的に楽しくなる。
そんなゴミ拾いをこれからも紐解いていこうと思う。

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