小説:嘔吐と吐血 前篇
1. わたしは、ゲロを吐くために生まれてきたんだろうか?
今日もずっと、トイレにいました。
濡れ乱れた髪の毛が張りついた頬を、便座につけて、だらしなく開いた口から液を垂らしながら、ぐったりと死んでいました。
便器の水の中で、小さな白い精みたいなのが、ぐるぐる渦に乗りながら、こっちへ手を振っているような。
もしかしたら渦に呑まれそうで、助けを求めてるのかもしれないけど、知ったこっちゃねー。救けてほしいのはこっちです。
トイレは水色で、開いた窓から柔らかい午前の光が斜めに差し込み、床を暖め、窓の外ではたぶん木にとまっている小鳥が、ちよちよ鳴いている、ああなんて心地いいんでしょう、誰もいないこの時間の学校のトイレって、やっぱり一番天国に近い場所だよね、そして、そんな場所でも吐いているわたしはきっと、この世のどこへ行っても生きていけないね。ご愁傷様。
ご愁傷様、とか言うけど、わたしの葬式に、家族以外の誰かは来てくれるんだろーか? きっとその日は大雨で、外の空気が青色に染まって見える、陰鬱な日。参列者の中には、喪服を着た、わたし自身もいる。……これ、誰か他の人の葬式の思い出だ。わたしが小六のときくらいの。帰りに、家族みんなでデニーズで、ハンバーグ食べたの覚えてる。喪服のまま、ジュージュー言ってるハンバーグを食べるのは、なんだかいけないような、しかしたまらなくエネルギーが湧いてくる、あんなに生きる気になったのは、生まれて初めてだった。ありがとうお葬式! ありがとう死んでくれた人! もうわかったから早くわたしを殺して!
頭の中、そうやってぐるぐる、ぐらんぐらんしてたら、足音が聞こえて、わたしの名前を呼ぶ声。それは透明な鈴蘭が鳴ってるような、先輩の声だった。授業中なのに、真面目なおさげのメガネっ子のくせに、さっき送ったメール見て、来てくれたんだ。
そんな大好きな先輩を、薄暗い空き教室で押し倒して、厚い四角いメガネのレンズを、べろべろ舐める。もちろんわたし、息もしているから、吐息でレンズは曇って、先輩のきれいな、今は涙で潤んでいる目が、見えなくなりました。
目隠し。
先輩がわたしのせいで変な方向へ堕ちなきゃいいけど、もう遅いか。ごめんなさい、たぶん責任は取れません。赦せなかったら、わたしがどん底にいるときか、もしくは絶頂にいるときを狙って、きっと刺しにきてくださいね。
「また変なことばっかり言って」
と、わたしの頭を撫でる。あー、なんでこんなことしてるのに、そんな笑顔ができるんでしょうか。ものが違うね。人間として。撫でられるたび、わたしの頭はどんどん鈍く、重くなっていく。これはもう、取り返しがつかないなあ、と感じているのはわたしだけで、先輩はきっとその笑顔で、いつでも好きな時にあっけなく、すべてを塗り替えて、日の光の下、将来結婚相手にしても良さそうな男の人と腕を組み、振り返る素振りも見せず歩いていく。振り返ってくれたとして、それはわたしのために、わざわざやってくれたこと。先輩は別にそんなことしなくても、平気なんだな。ええ、そうです、わかっています、先輩に刺されるというのは、刺されたい、わたしの願望でございました。
もちろん、先輩は刺してくれることなどなく、こんなわたしのために、罪を犯してくださることなどなく、やることだけ終わると、もう赤みもすっかり抜け去った白い顔で、にっこり笑い、わたしへ手を振り、向こうを向いて廊下を歩いて行く。
やっぱり、振り返ることはなかった。
先輩が角を曲がって消えると、わたしも振り向き、歩きだすけど、自分の頭から額にかけて、黒雲のような影がかかっているのを感じて、足を速める。でも、それはわたしだけについてくる雲なので、逃げられはしない。結局、トイレへ逆戻りして、また吐く。今日、何回目だろう。いつからだろう。幸福が、あったとしても、一瞬で終わってしまうようになったのは。
覚えてないし、思い出したくもないや。
ほとんど白目を剥きながら、便器から顔を上げると、天井近くを、天使がくるくる回りながら、わたしを見下ろしてる。幸せそうに太った天使の顔は、わたしを嘲ってるようにしか見えない。ああ、幻視、幻想、つまり嘘。
そうです、最初に言っときますが、わたしの口から出てくるものは、ゲロを除けば、あと全部嘘なんで。本気にしないでくださいね、ほんと。こんな惨めな人間は、絶対実在しませんから。勘弁してください。
2. 苗子(なえこ)ちゃんは、喜びが高じると吐血する。
(それに比べればわたしはゲロなんだから、気楽なもんだよね)
緑色のロングヘアの苗子ちゃんが、ネイビーのゴスロリの服で、お腹を抑えて腰を折り、白い頬を上気させて血を吐いてる姿は、かわいい。
そのかわいい苗子ちゃんの姿を、苗子ちゃんがこの世で一番大好きな人である、お兄さんが見ることはないまま、苗子ちゃんは戸の向こう、閉ざされた暗い部屋の中で干涸らびて、白いおばあちゃんになっていくのでしょう。
そう、お兄さんは苗子ちゃんの部屋に入れてもらえず、ただ、戸の表に貼ってある、白い紙に書かれた文字で、苗子ちゃんの言葉を聞く。
託宣。
例を挙げると、
「お兄様、のどちんこをください。その白いおたまじゃくしのようなのどちんこを、引きちぎってでもわたしにください」
「おしめをください。わたしにおしめをはかせてください」
「緑の蛇を食べます」
などですが、お兄さんが叶えてあげられたのは、三つめの「緑の蛇」だけ。
まあそうだよね。でもそれだけでもすごいよね。
お兄さんは蛇を捕まえるときに、噛まれて、毒が回って高熱に臥せったりもしたけれど、誇らしげ。
そんな苦労の賜物の蛇は、串焼きにされて、苗子ちゃんは部屋で、テレビゲームの画面の白い光を顔に受けながら、あぐらをかいてそれを食べつつ、コントローラーをカチカチ押している。
背中曲がってるよ、画面に顔近いよ、
そんな注意を苗子ちゃんにしてあげられる人は、いません。
誰も苗子ちゃんを矯正できず、テレビゲームは、ピチピチの苗子ちゃんをすり減らし放題。
ゲームに飽いたら漫画を読み、漫画に飽いたら妄想電波帳をしたため、それにも飽いたら寂しくて、淫乱なことをする。
そうやって、どんどんすり減っていこう。
すり減って、すり減って、そのままなくなっちゃった方が、きっとわたしたちは幸せだよ!
3. お姉ちゃんの頭にキノコが生えた。
さらに、ノックしてお姉ちゃんの部屋に入ったら、ベッドに裸のお姉ちゃんと彼氏がいて、部屋中キノコだらけになっていた!
そのうち、お姉ちゃんの体も、小さいキノコまみれになるでしょう。
と思ったら、今日家に帰ってくると、なってた。
ピンクのソファの上で、上を脱いでいるお姉ちゃんの、肩に、背中に、腰に……
気持ち悪い。
わたし、キノコって嫌いなんだよね。
ヌメヌメしてて、◯液みたいじゃない?
(◯の中にはお好きな一文字をどうぞ)
でも、そのキノコたちの一つ一つは、子供みたいにも見えてくる。
ぜーんぶ、男の子。みんな目が潰れてるけど、笑顔で。
お姉ちゃん、夜ベッドに横になって、一人ひとりの子に、楽しそうに喋りかけてやんの。
名前もつけてんのかな。
全部でゆうに三百本は生えてると思うんだけど。
そんなことしてる暇あったら、大学の試験勉強したら? と思ったけど、お姉ちゃんの英単語カード(あの銀の輪っかが通してあるやつね)をこっそり見たら、そこに書かれているはずの英単語は、もうすべて、キノコの名前に取って代わられていた……。
恐ろしい繁殖力。人類すぐ滅亡しちゃうね。
今のうちに燃やしとくか。
べつに人類滅亡してもいいんだけど、ただ個人的に、あのキノコ部屋を火の海にしたいんだよね。
火炎放射器を借りてきて、実行しました。
家、全焼しました!
4. 突然ですが、問題です。
わたしがゲロばかり吐くのは、なんででしょうか?
興味ない?
まあそう言わずにさあ、ちょっとでいいから考えてみてよ。ちょっとも積もれば山となる。人助けと思ってさ。
……家庭環境に問題がある。
はい、よくあるやつね。
お姉ちゃんはあえて置いとくとして、実はわたしには、お兄ちゃんもいます。
クソ爽やかなお兄ちゃん。
色白で、校庭の木の下で、いっつも女子に囲まれている。
その中には猿みたいに枝にぶら下がってる、わたしの友達の子もいるけど、まあそれはよくて。
お兄ちゃんの周りにいる女の子たちは、キラキラしてて、辺りに光の風が見える。そういう磁場をつくりあげる性質が、お兄ちゃんには備わっている。
でもそれは、お兄ちゃん一人の力ではなく、周りの女の子が協力してできること。誰か一人が本気でお兄ちゃんの気を引いて、奪ってしまおうとはせず、その場のために自分の身を捧げている、そういう在り方に幸せを感じているんでしょう。
そんな風であれるのは羨ましい。
つっても、わたしブラコンではないですよ?
むしろお兄ちゃんのことは憎悪してます。
朝、わたしより早く家を出るお兄ちゃんは、まだパジャマで寝癖まみれのわたしに、
「いってきます」
ってスーパー爽やか笑顔で言う。
わたし、トイレへ駆け込み、吐く。
何度かの嘔吐の波の後、なんとか便座から頭を、自分のものじゃないみたいに重い頭を持ち上げて、涙目で天使様を見上げる。
トイレの上に小窓があって、そこにかわいい陶器の天使様が、窓の向こうの青空をバックに、笛を吹いているですな。
まあその天使様も、わたしが家を燃やしたせいで、最後は微笑んだまま、業々ゆらめく地獄の炎の海へ、呑まれてゆくことになるわけじゃが……
このときのわたしは、そんなことは露とも知らずに、組んだ両の手に額をこすりつけるようにして、祈っておりました。
そしてやってきたのは「おーい大丈夫かー」という、背後からの声。
お兄ちゃんだ。
たぶん天使様が、もしくはその先の神様が、わたしの祈りに応えて遣わしてくれたのであろうそのときのお兄ちゃんは、もしここにいるのがわたし以外の人間だったなら、まさしく使徒であり、救世主そのものだったでしょうが、
「大丈夫か。これ飲め」
わたしの肩に手を置いて、白い錠剤を差し出すその姿、歪みきったわたしのレンズ越しでは、悪魔にしか見えんのだ。
そして人は悪魔の誘惑に勝てない。
お兄ちゃんが日頃からわたしのためにポケットへ忍ばせているその薬を、わたしは奪い取り、まとめて口へ放り込むとガリガリ噛み砕いて飲み干す。
「中毒者みたいだな、おまえは」
優しさ100パーセントの笑顔でお兄ちゃんが言う。その笑顔をわたしに向けるなというのがわからんか。わざとやっているのか。口の中の薬まで、はじめから善意の糖衣でくるまれていたみたいに甘ったるい味がして、もはやわたしにとって、それは毒。また便器の中へ顔を逆戻りさせて、吐く、わたしの背中をお兄ちゃんが優しく撫でて、上から下へさすられるたびにわたしの体は蠕動を起こし、朝メシも下手したら昨夜の晩メシまで、すっからかんになってしまうまで吐ききる。
「すっきりしたか?」ハーハー息をしているわたしへお兄ちゃんが言う。「どうせ吐いてしまうようなものなら、最初から体に悪かったんだ。出し切ったほうがいい」
「ハーッ……それ……言い訳やん……」
お兄ちゃんは、自分のせいでわたしが吐くことを知ってる。
それでも善意を振り撒くのをやめないのは、自分の善人ぶりに少しでもヒビが入るのが嫌だからだ。
「……おまえは、人から向けられたものなら、それが悪意でも愛情でも吐き出してしまうね。まるでこれまで一度も優しくされたことがない人間みたいに。どうしてだろうな? 僕はおまえが家族になったときから、自分の手でたくさん愛情を注いできたのに。毎日、卵を温める親鳥みたいに、毛布にくるんだおまえを抱いて眠ってた。あの頃は、おまえも笑ってたのに、おまえが、一人で外を歩けるようになったくらいからかな、気づけばあらゆるものに、怯えるようになっていたのは。おまえは僕を拒絶した、最初の人間だった。そしてもしかしたら、最後の人間でもあるのかもしれない。おまえがこれから先、死ぬまで僕に心を許さないんだとしたら、それはとても悲しいよ」
よくもまあそんな台本覚えましたみたいな台詞をペラペラと。役者か。
「心配せんでもすぐ死んであげるけ」わたしはお兄ちゃんへ嘲笑を向けた。「大体、どうでもいいくせに。悲しいとか一度も感じたことないやろ」
「おまえは僕を、何だと思ってるんだよ」お兄ちゃんは笑った。「でも、まあね。だってさ、楽しいだけの方が幸せだろ?」
幸せ。
幸せか。
「そろそろ行かないと、遅刻だな」お兄ちゃんが、腕時計を見る。
「はよ行きよ。邪魔やけ」
「……ありがとう。無理するなよ」
その言葉で、わたしはまた吐いた。もう吐くものはなかったから、息しか出てこなかったけど。
5. 暇つぶしに、苗子ちゃんの妄想電波帳を、ご開帳してみましょう。
……うーん、これは完全に、小学生男子が色鉛筆で描いた、下手くそな緑の恐竜の絵ですね。
目付きが悪く、口から赤とオレンジの、ギザギザの火を吐いています。
たぶん、誰もがどこかで見たことあるような気がする絵。「小学生男子の恐竜の絵」のイデアと言って、過言ではありませんね。
イデアとか知ってるわたし、賢いでしょう。
世界中の何にでも、イデアがあります。
猫も歩けばイデアに当たる。歩かなくてもそこらじゅうに。
あなたがソファーの上で大口開けて寝ている、その周りに死ぬほど漂っている埃の粒たちの中にも、きっとイデアは宿っています。
それをあなたは簡単に吸い込んでしまって、起き上がってからももちろん気づかずコップについだ水道水で流し込んでしまうのですね。
別に何も悪くないんですけど、そうやってやっぱり、人間って知らぬ間に罪のカタマリになっちゃってるんですね。
はあ、しんど。
えー、話を戻して、この絵の恐竜が何をしてるのかというと、破壊。
青空の下、わたしたちの町、逃げまどう人々。
別に恐竜に人間への悪意はありません。あるわけないよね。蟻の巣へ水を流し込む子供だって、蟻の一匹一匹へ真剣に憎悪の炎を燃やしているわけじゃないはずだ。
つまりそれは殺される側からしても、いまいち怒りのやり場に困ってしまう、無邪気な、ただの破壊なわけです。
苗子ちゃんはその破壊を、お兄さんと二人手を繋いで見ていたい。
甘い感傷、くだらないね!
はい、じゃあ次のページめくってー……また絵ですね。
地面から一本生えている、黄色い花の絵。
花の真ん中に、ぺかーと笑っている人の顔がある。
これは苗子ちゃんのお母さんの顔。
苗子ちゃんのお母さんは普通に良いお母さんで、わたしが苗子ちゃんちへ遊びに行ったら、エプロン姿で木のお盆にオレンジジュースとおせんべいを乗せて、持ってきてくれる。
そしてこんなわたしにも、笑顔で挨拶してくれる。
この絵に描かれているのはその笑顔。
のーてんきで欠片の影もない、素敵な……わたしには一生できなさそうな顔。
「苗子ちゃんのお母さんがわたしのお母さんやったらよかったのになー」
本心かどうか知らないけど、わたしの口からそんな言葉が出たとき、苗子ちゃんは
「えーなんで? わたしは未沙ちゃんのお母さんうらやましーい」
「見た目がいいけ?」
「それもあるけどー、ただ綺麗なだけやないで、特別やん? 日常と無縁といいますか」
「そらー、子供たちとの日常を捨ててますからね」
「捨てられても、自分から引っ付いていけばいいやん。気持ちの問題よ」
「じゃー、とりかえよっか? お母さん」
「うん」
で、次のページから苗子ちゃんが書きはじめましたのは、互いの母親を取り替えた後のわたしたちの様子。
ここはまだ執筆中みたいなんで、後日触れるとして……他にも苗子ちゃんの妄想は夜空の星ほど無数にとりとめなく、いろんなところに散らばっております。
現実に帰れないからって、ひどいもんだね。
まあ、わたしも嘘と妄想の塊だから、人のことは言えないけど。
6. 家が燃えっちまったので、今日からは一家全員、青空の下が屋根の下。
「うーん、すがすがしいね!」
とわたしが言えば、前を歩いていた家族全員が、振り返ってわたしをにらむ。
というのは嘘で、お母さんは何の感情もなく、流し目でちらっと見るだけ、お兄ちゃんは一瞬の間の後、微笑みかけてきて、お姉ちゃんに至っては、振り向きもしない。
興味を持て! わたしを憎悪しろ!
お姉ちゃんは、どうやらサイケにカラフルなキノコの胞子毒に、頭をやられている模様、それともはや全身これ胞子毒の塊と化して実体をなくしてしまったのか、車に撥ねられても気づかなそうなほど、ほわほわと黄色い幸せのコスモに包まれているのが見える見える。
そこへお兄ちゃんが「うん、いい天気だね」と畳み掛けるように笑顔で追い打ちかけてきて、わたしはまた催し、キョロキョロ辺りを窺い、公園を見つけるとすぐさま公衆便所へダッシュ。
お世辞にもきれいとは言えない茶色いシミだらけの公衆便所で吐いていると、この世の終わりのような気分、「場末」って言葉が頭に浮かぶけど、あの言葉ってたぶんさ、どこにも居場所がなくて転がり続けて、最後にたどり着く果ての場所って意味なんだね。また一つテストには出ない知識を得て賢くなったわたしが個室の戸を開けると、手洗い場の鏡の中、髪を梳いてる人と目が合った。
だからなんだよってなんでもないんですけど、卑屈なわたしがすぐ目を逸らして下へ向けると、その人の足元をゴキブリさんが這っている。必死で生きているんだね。涙が出るね。わたしのゲロの飛沫をどうぞ好きなだけ飲んで。抜け落ちた髪の毛は子供たちとも分け合って、未来永劫幸せな家庭を営んでおくれ。
そしたらわたし二度とここには来ないから。
7. こんなわたしでも、がんばって毎日学校へは通っています。
学校へ行かなくなったらいよいよ負けだな、みたいな、あるんですよね。
死ぬほど辛いんですけどね。
苗子ちゃんはいろいろとやり過ぎた結果引きこもりルートへ入ってしまったが、わたしも結局は、同じ道へ行ってしまうのかなという暗い予感は、この頃日増しに積もってきているところですが。
まあ、がんばりますよ。
やっぱり、中学へ上がったというのが、いけないんでしょうね。
小学校の頃は、みんな何も考えてなくて良かった。
いや、でも、小五くらいからは正直、怪しかったかな。
噂話とか、見栄とか、嫉妬とか、……
見下されたくない、見下したい。
そんな影が視界の隅でちらつくのを、見てみぬふりをしておりました。
中学へ入ったらもう、その影の方が主流で、光と影が逆転して、あれ? わたし日陰者? みたいな。
で、そんな世知辛い世の中から苗子ちゃんがお先にドロップアウトし、残されたわたしが取った選択は、
ピエロ。
もう、見下す見下されるの牽制合戦から、ポーンと一抜けして、外宇宙で一人仮面を被って奇行を繰り広げる、そういう存在へと自分を貶めたんですね。
仮面を被っておけば、本当の自分の顔に傷がつくことはないので。
顔は女子の命。
もちろん、これは心の顔のことです。
よくみんな、ノーガードでさらけ出せるよね。
いや、ノーガードっぽい仮面を被っているだけなんだろうけど。
わたしにはそんな、器用な真似はできません。
やるなら極端!
でなきゃストレスで死ぬ!
ということで今日も、バカアホキ◯◯イキャラを演じ続けます。
ふいに飛び出すびっくり箱のようなけたたましい声、相手の言葉の遥か斜め上を飛んでいく場外アウトの返答、素っ頓狂な仕草から何の前触れもない白熱のクレイジーアクションの数々。
「仲良し」のみんなで机をくっつけあっているときに突如わたしだけ立ち上がり、死に物狂いで手足・顔・口を動かしてそういったものをご提供すると、みんな笑ってくれる。
みんな笑うのが大好きだから。
人で笑うのが。
笑える対象がいるということがみんなを安心させている間、わたしはなんとかギリギリ大丈夫。でもいつ飽きて放り捨てられるか分からない。所詮は本当に人を楽しませる心など持っていない、道化失格のおもちゃですから。
笑いがやんで空気が冷え、隙間風が差し込むように誰かの口から人の悪口が出てきたとき、わたしは自分の無力を悟り、顔じゅう体じゅう汗が噴き出しておとなしく席につくしかない。
陰口がもっとも醜悪な色合いを帯びるのはどんなときか、みなさん知っていますか?
色恋が絡んだときです。
少なくともわたしの周りではそう。
それが始まったときのわたしの心への負荷のかかりようといったらありません。万力でぎりぎり内臓を押し潰されているようです。
そうなったらわたしはもう胃を押さえて、「ごめん、ちょっとトイレー!」と言っていつもの個室へ駆け込んで吐く。吐くのはいつも苦しい。何百回繰り返しても慣れなくて、毎回涙目ってすごくないですか?
「うらやましい」と苗子ちゃんが言う。「どんだけ繰り返しても新鮮な体験って、うらやましい」
「それ、良い体験ならいいけど、苦しさが薄れないのは辛いでしょうが」
「そうかな? 何もないよりはマシやん。
ねえー未沙ちゃん、知っとる?
わたしのこの部屋ねえ、なーんもないんよ」
「……ゲームとか、黒魔術の本とか、いろいろあるやん」
「つまらんのよ……血吐くことも、なくなった」
「お兄さんに頼んで、面白いことしてもらいよ」
「ダメなんよ。お兄ちゃんは、わたしの言うこと大体何でもしてくれるけど……抑えられとる。わたしに血を吐かせるようなこと、してくれん。やっぱりわたしが自分でせないけんの。お兄ちゃんは、わたしが血吐きながら帰ってきたら、手当てする役目。それだけでいい」
「……苗子ちゃーん。学校はつらいよ。悪いことは言わんけ、戻ってこん方がいいよ……」
「でも、わたしこんままやと、この部屋のなかで腐るだけやん? 腐って、ドロドロに溶けて、緑のネバネバしたやつになったら、お兄ちゃんはそれゴミ袋に入れて、燃えるゴミの日に出すだけよ」
「お兄さんはそんなことせんでしょ。苗子ちゃんの信者やろ?」
「ううん。するよ。せいぜい最後にわたし(だったもの)が入っとるゴミ袋の上からキスして、後は収集車に運ばれていくのを、スッキリした笑顔で手振って見送るだけよ。で、また街で別の好みの女の子見繕って、口説いてさらってきてこの部屋に閉じこめて、仕える。お兄ちゃんは、美少女の敬虔な信者でいる自分が好きなだけ」
「自分で美少女言うし……ん? ちょっと待って、苗子ちゃんって攫われてきたん?」
「そうよ。わたしがお兄ちゃんのこと世界で一番好きっちゅうのも、あれお兄ちゃんの設定」
「そうかそうかあ。今日も妄想快調やね!」
「死ねよ♥」
あー、苗子ちゃんの笑顔はかわいいなあ。
8. 家を燃やすとき、ソファで幸せそうに眠っているキノコだらけのお姉ちゃんも燃やして「浄化」してやろう
かと思ったけど、さすがにやめた。
お姉ちゃんは、自分の部屋に生えていたキノコが焼けちゃったことは大して気にしてないみたい。自分の体に生えている、かわいい我が子たちだけ無事ならそれでいい。
おお、母親とはなんと現金(?)な!
うちの母親にも訊いてみました。
「お母さんもわたしら産まれたばっかの頃はあんなんやったん?」
「? いいえ?」
「ですよねー」
お母さんはいつも魂が抜けてる少女のような人で、白いドレスにフチ付きの白いお帽子をかぶっている。駅の雑踏の中でベンチに座ってぱふぱふパフを叩いている姿まで、とても絵になっていて羨ましい。まるでこの人が母親だと思えない。モデルみたいにすらっとしているし、産みの母親は別の人なんじゃなかろうかというのが、わたしとお姉ちゃんとの間での定説だ。
本当の母親どころか父親が誰かも、わたしたちは知らない。
いま、お母さんを迎えに来た、恰幅のいい茶色いスーツの紳士、あれがわたしの父親かもしれないわけだ。
家がなくなってからというもの、わたしたちはホテルからホテルへ泊まり歩いていて、夜はきょうだい三人、一つの部屋でだらだら過ごしている。お兄ちゃんとわたしがゲームで対戦、お姉ちゃんは髪の毛を梳かすようにキノコたちを愛で、お手入れするのに余念がない。自分の肌や髪はどんどんパサついていってる。キノコに養分を吸われてることは明らかだ。お姉ちゃん一人が吸われるのは不公平だから、あの彼氏にもせめて、滋養に富む食べ物なんかを持ってこさせた方がいい。
でも、彼氏、電話に出ないんだって。
「いいんだよ、私、幸せだから。未沙が怒ることないよ」
「お姉ちゃん、毒気までキノコに抜かれちゃったの……」
「そう、私、きれいになったでしょ?」
からころ笑う。きれいというか、色が抜けて、かすに近づいてるって感じだよ、お姉ちゃん。
お母さんは今夜もたぶん帰ってこない。このホテルの別の部屋にいるんだろう。そこでお金を稼いでいる。
貯金はたくさんあるからそんなに働かなくてもいいんだけど、相手の方が定期的に会いたがるみたい。生々しく言うと、「欲しがる」かな?
あはは。はは……
お母さんは完璧なマグロ。ことの最中は、タバコを吸いながら本を読んだり携帯をいじったりしている。男が自分の体を貪っているのを半分夢の中みたいに感じながらメールを打ったりするのは、なかなか面白いらしい。それはもしかしたら別の男へのメールかもしれなくて、そのことを相手の男も愉しんでいる、みたいな。
あんまり分かりたくない世界ですね、はい。
お母さんの「仕事」は、家を燃やす前から続いているものだけど、わたしの覚えている限り、お母さんが仕事で体を傷つけられたりして帰ってきたことはない。傷つけようとしてもお母さんは無抵抗だろうし、どんな拷問を受けても悲鳴の一つもあげないんだろうけど、そんなことに一度もならないのは、すごい権力を持った優良なお客様が、見えないところでお母さんを守っているおかげだったりするのかもしれない。もしかしたらそのお客様の名前は、「神様」だったりして。
お母さんがいまの仕事を選んだのは、面倒なことが嫌いだったから。できるだけ何もしたくないから、家で料理もしたことがない。でも食べるものにこだわらないかと言うとそんなことはなく、体に悪そうなものは絶対食べない。体が受けつけないみたい。で、ちゃんと良い食材を選んで体に良いものだけ作ってくれる若いコック見習いみたいな人が、毎日うちに来ていた。爽やかな笑顔で人当たりの良い人だったけど、うちに溶け込むことはなく、本当に料理を作って出すだけですぐ帰ってた。
今はその人も来なくなって、ホテルの料理を毎日食べています。美味しいけど人のぬくもりはあんまりない。まあ、「人のぬくもり」なんてこっちの幻想だろうし、誰が作った何を食べたってわたしはほとんど吐いてしまうんですけどね。
お母さんはもともと仕事で家にいないことも多かったし、燃えたあの家だってお客様にもらったものだったから、自分の家なんて意識はなくて、なくなっても多分何の感慨もなかったんだろうな。こうしているうちにまたすぐ別の家が与えられるのかもしれず、わたしのやったことはうやむやのまま何のお咎めもなく、トイレの渦に呑まれて消えるちっぽけな紙屑のようなもの。
一切は流れていくばかりで、お母さんは死ぬまで「家」を持つことがなく、それは本当の親が誰なのかもわからないままとりあえずお母さんに付き従っている、いまのわたしたちも同じで……
いやわたしたちについては結婚して自分の家族を持ちゃあ違うのではとも思ったが、お姉ちゃんは彼氏に逃げられ早くもシングルマザー(?)になり、お兄ちゃんは一人の女に惚れ込むことが生涯なさそうだし、わたしは……
わたしは……
いや、わたしまだ中学生ですから。早い早い。
結婚くらいできるって。幸せな結婚くらい。焦るな。
とりあえず吐く癖さえ治れば大丈夫だって……
ちなみに、わたしたちきょうだいの中でも、お兄ちゃんだけは白くてきれいで現実味がなくて、つまりはお母さんに似ている。
もしかしたらお母さんの「仕事」の過程で偶然できちゃった副産物なのかもしれない。
でもそんな悲しい自身の出生説に対してお兄ちゃんは、
「いいじゃないか。僕は気に入ってるよ」
と爽やかな風に乗せて言う。
あの親にしてこの子あり、ですね!
9. 先輩にフラれた。
いつもみたいに学校で、押し倒そうとしたらさ、
「彼氏ができたから、こういうことはもう……」
って、口に手を当てて顔を背けて、清純派ですか! あんた!
その仕草が逆にぐっときてしまって無理矢理続けようとしたら、
パアーン!
って。
何が起こったか、しばらくわからなかったけど……
わたし、ビンタされていたんですね、はい。
先輩、おしとやかに見えて、自分を守るためにちゃんと拳を振るえる人だった。
まあなんとなく、知ってたけど。
そんで先輩はその場を去って、もうそれっきり。
……いいよいいよ、良かったよ。大体わたし、色恋は憎んでいるんだし!
それでも、相手が男子じゃなかったら、女子の中でも、先輩だったら……なんて淡い夢を抱いていた自分、まじファック。
アホなのお前? 大体、仮にそれで上手く行ってたら、どうなってた?
自分自身の感情の振れ幅に耐えきれず、吐きまくって死んでいただろう!
……でも、それで死ねてたら、本望だったのでは?
もうわからん。
頭はぐちゃぐちゃ混線しているが、困ったことに、体は寂しがっている。
すがる相手は苗子ちゃんくらいしかいない。
電話をかけた。
「もしもし」
「苗子ちゃん?」
「あー、未沙ちゃん?」
「うん。いま大丈夫? なんか息荒いけど」
「だいじょうぶ」
「そう? あのさ、前言っとった、配信の話あるやん?」
「うん」
「あれ、やってみたい」
「ほんと? やったー。じゃあ、明日しよ」
「そんないきなりでいいんや」
「センセーショナルやけ、いきなりでも人は集まると思うよ?」
「あんまりたくさん来られても怖いなー……」
「顔隠しとけば大丈夫よ」
で、用件以外にたいした話もなく、電話は終わったけど……
苗子ちゃん、アレ、喘いでたのでは?
電話の向こうで、誰かとしていたのではなかろうか。
たとえばお兄さんとか、お兄さんとか、お兄さんとか。
ついにお兄さんに呪いをかけて、立入禁止の部屋へ入らせ、自分を襲わせたのか。
組み敷かれた苗子ちゃんの白い肌が赤くなってるのを想像しながら、その夜は眠る。
そして翌日、放課後、制服のまま苗子ちゃんちへ行って、あの薄暗い部屋、床に置いてあるノートパソコンの画面の前で、苗子ちゃんと向き合って、両手を握り合い、舌を絡ませ合ったりしました。
あれをあえて、キスとは呼ぶまい。
あとはまあ、服を脱がせて乳くり合ったり。
パソコンの画面だけが明るく、ときどき横目で見てると、画面の中を、たくさんの興奮してるコメントが流れていく。けど、それを見たところで、あんまり生の人間に見られてるって実感は湧かないね。パソコンの上部についてる、ちっこいカメラ、あの向こうに何百人? 何千人? って人がいるなんて、信じられない。恐ろしいことだ。
なかには「顔見せてー」とかいうコメントもあったけど、誰が見せるかボケ。
わたしは、口を使うときはマスクを上に上げて目隠しにして、そうでないときは普通に口を隠してました。
しかし苗子ちゃんは驚きの丸出しノーガード。
一応はじめる前に「顔隠さんでいいと?」とは訊いたけど、「いいのいいのー」って。
人生捨ててやがる。恐れ入ったね。
苗子ちゃんも先輩とは違う意味で、わたしじゃ及びもつかない人だ。
中途半端なわたしはダサい。
配信が終わったら部屋を出て、ふらふら階段を下りて、リビングでペットボトルの水を飲む。でも、頭に熱いもやがかかってるような感じが消えないから、外の空気を吸いに家を出た。
歩いてたら、苗子ちゃんが言った。
「ちょっとおもしろかったね。またしよ?」
見ると、苗子ちゃんは鼻先を手で覆ってる。その下から鼻血が垂れて、滴り落ちた。
「『鼻血出る程度には面白かったけど、吐血するほどではなかった』ってことね」
「そう。でも、次もう一回したらレベルアップするかも」
「家の人に見つかったら大変やん」
「お母さんはあの時間、夕飯の買い出しって決まっとるけ大丈夫よ」
「お兄さんは?」
「お兄様はおったよ? いまも後ろついてきとるよ」
振り向くと、ゾンビの蜃気楼みたいな灰色の人影が遠くにあった。
わたしは道路の側溝へ駆け寄って、吐いた。
そばに電信柱があって、その根元には白い猿のぬいぐるみと小さな花束が置いてある。
「ハア、ハア……これ、誰かさあ、ここで小さい子が死んだんかなあ……?」
「未沙ちゃんも死んだら、こうしてもらえるんやない?」
それは、お兄ちゃんはやってくれるというか、喜んでやるだろうけど、ちゃんと心から悲しんでくれるのは、お姉ちゃんくらいだろうな。
と思ったけど、今のお姉ちゃんは子供へ注ぐ心しかなくて、わたしへの悲しみなんて、たとえ生まれたとしてもすぐ日々の喜びの渦の中へ、呑まれてしまいそう。
「苗子ちゃんは? 悲しんでくれる?」
「それあえて訊きます?」
「あーごめんやっぱ」
「わたしが流すのは血だけ。人のために流す涙なんてありません!」
とびっきりの笑顔。
かわいすぎて、わたしは涙目のまま笑い返すしかない。
でもやっぱり「かわいい」は、いくら純度が高くったって先輩への「好き」のかわりにはならないんだな。
苗子ちゃんとしてる間は、先輩としてるときみたいな、心と体が一つになった必死さはなかった。
だからこそ、配信なんかできたんだ。
あの薄暗い部屋の中、体が勝手に動いて、頭は熱に浮かされ、心がわたしを見失い、どこにいるのかわからなくなって、自分が自分じゃなく、マカロンみたいにかすかすの、いくらでも替えのきくパステルカラーの甘いお菓子になったような気分だった。
苗子ちゃんは、そういうものになりたがってるんだろうか?
緑の長い髪にゴスロリ服。
かわいいだけの消費されるだけの、「」つきの「苗子」。
自分じゃない存在に。
10. 死にたいなあ、と思い始めたのはいつからだろう?
実は、物心ついたときからか。
だって、生きるのって面倒くさいじゃないですか?
食べるのも動くのも話すのも、勉強も人への気遣いも体育の授業も、
人生を維持するためにやらなきゃいけないって課されることだけでも、わたしにとっては多すぎる。
眠るのは好きだけど、永遠に眠ったらそれが死だから、やっぱり死にたいってことですよ。
その面倒くさいを超えて生きるに足る何かがないとさ、神様、わたし死んじゃうよ?
神様は言う、「そんなもん、自分でつかみ取りなさい。でなきゃ勝手に死になさい。おまえなんて、星の数ほどある星のうちの一粒よりも、そのまたさらにずっと小さい、とってもとってもちっぽけな存在なんですから」
まあそうですよねー、わかってます。
こういうときはさ、ほら、自分より不幸な人を見て、安心すればいいんだよ、みんながやってるみたいにさ、と思って、ネットで「戦災孤児」って調べていろいろ見てたけど……
まったく。
まったく、心が動かない!
せめて悲しみに暮れられたらよかったのに、なんだこの乾燥具合は?
想像力が死んでいる。
かわいそうな子供たちよ、わたしはきみたちがかわいそうであることは、頭では重々承知しているつもりだ、しかし、しかしだね、実際のところ、わたしの心は、きみたちに対して何も想ってあげられないのだ。ごめんな。
死ぬか。
よっこらせ、と腰を上げ、わたしは外へ出る。
日曜日、気持ちのいい青空の下、樹海の入口で、苗子ちゃんが待っていた。
んー、自殺日和ですねー。
鬱蒼と茂る緑の中をわたしたちは歩くけど、割と明るく木漏れ日が差し込んでくる。
わたしたちは今日、死体探索という名目でここへ来ました。
でもそれらしいものは、ちっとも見つからない。
のっしのっしと前を歩く苗子ちゃんは、お腹が空いたみたいで、生き生きとした真っ赤なリンゴを、ゴスロリ服のフリフリ袖で磨いて、まるかじりする。
口からりんごの汁が滴ってる。
美しい少女の横顔。
あー、とても生命を感じる。
「ねえ、わたし今日、ここで死のうと思うんやけど」
とわたしが言うと、苗子ちゃんは目だけわたしを見、りんごを口から離して、
「勝手にすれば?」
おう。
「一緒に死なん?」
「なんで?」
「わたしたち、これから先生きとっても、いいことないやん?」
「はあー? 失礼ね。未沙ちゃんは知らんけど、わたしはあるよ。あらせるし。ただ今はつまらんだけ。
未沙ちゃんがいまから目の前で死んでくれるんやったら、面白いかも」
「……なんか、嫌になってきた」
「なんで」
「なんかムカつく」
「えー? 死んで死んでー。わたしのために死んでよ~」
「いやもう絶対死なん」
「あは。未沙ちゃん元気やーん」
「毎日吐いとるのに元気とか」
「吐くのももう日常でしょ? なら元気よ。吐きながら生きればいいだけやん」
それは軽率な発言ではなく、ただの本心。
仮に苗子ちゃんがわたしと入れ替わって、毎日吐くようになったとして……嘔吐の真っ最中に「元気ですか?」と訊かれれば、「元気ですよ?」と素で答えられるんだろう。
苗子ちゃん、引きこもってから多少弱くなったのかと思ってたけど、変わってなかった。
相変わらず強すぎる。
「あー、やっぱ退屈やねえ。なーにが樹海よ。死体がないならただの森やん。もう帰ろ? 帰りにパフェ食べよ?」
「はい……」
その後パフェも食べてカラオケもゲーセンも行って散々遊びまくり、死ぬとは一体何だったのか、お恥ずかしい。
気づけば帰りのバスは最終で、暗い車内、隣の席の苗子ちゃんはわたしの肩に頭をのせ、大口開けていびきをかいて寝てました。それがゴスロリの出で立ちとあまりにミスマッチで、一周回って魅力的。
苗子ちゃんちの前で別れるとき、苗子ちゃんは眠そうに目をこすってたけど、たぶん今夜も朝まで起きてるんだろうな、と思いながらわたしは、
「じゃーね、おやすみ」
「おやすみー。帰り、襲われんようにねー」
ろくでもないことを。
苗子ちゃんが家に入ってからも、なんとなく見ていたら、やがて二階の苗子ちゃんルームに電気がつき、窓に二つの人のシルエットが浮かぶ。苗子ちゃんと、もう一つ大きいの。大きいのが苗子ちゃんを殴る。何度も殴る。苗子ちゃんが壊れたようにカタカタ揺れながらケタケタ笑う。
わたしは踵を返して歩きだす。
闇の中の迷路みたいな帰り道、迷路みたいだけど足は道を覚えていて自動的に動く、その間わたしの頭は首から下とは切り離されて自由に働き、想像する、今頃苗子ちゃんは血を吐いてるのかな。
黄色い照明の下、畳の上、ゴスロリ服で、お腹を押さえて腰を折り、顔は上げてニイーと歯を剥き出して笑い、爛々輝く目で目の前の相手へと上目遣い。まるで手負いの獣のような。
苗子ちゃんのその顔を殴って自分好みの泣きっ面へ変形させてやろうと、手を振り上げる貴方、誰だか知らないけどわかっておられない。
苗子ちゃんはなんて言ったって、その顔のときが一番かわいいんじゃないですか。
いくら力で打ち倒しても、殺しても、決してその魂までは折れないと感じさせる、凶暴で無邪気で自由な。
思い出す、小学校の廊下。
あのときの苗子ちゃんは黒いゴスロリ服で、頭も黒のざくざくした短髪にカチューシャ、当時学年をシメていた体の大きな女子四人グループへ、単身立ち向かい、殴られてあの獣の顔を見せてくれたのだった。
相対する苗子ちゃんと敵四人、それぞれの後ろに人だかりができていて、わたしは敵の方のギャラリーから苗子ちゃんを見、
うわ、すごい!
と思いました。
生まれて初めて人から感じた、特別な鮮烈さでした。
その気性の激しさのせいで、苗子ちゃんはひとりぼっちで、だからこそわたしは自分から友達になれた。
放課後、夕焼けの橙色の廊下へ苗子ちゃんを呼び出し、警戒している獣の苗子ちゃんへ手を差し出したわたしは、どうしたことか、おそらく生涯に一度きりだと思われる、慈愛の女神のような蕩ける笑顔で、
「友達になって」
苗子ちゃんの顔が、驚愕に凍りついた。
そして次の瞬間、お腹を押さえて腰を折り、口を手で覆う、その手の指の隙間から、血がぼとぼととこぼれ落ちた。
ああ、かわいい!
手では隠しきれない真っ赤な顔で、わたしをにらみながら、血のついていない無事な方の手を、震わせながら、わたしの手へ重ねる。
楽しかった、二人で手を繋いで遊んだ日々。
でも、わたしは弱いので、ずっと手を握っていてあげられなかった。
中学へ上がってからも、苗子ちゃんは制服じゃなくゴスロリ服で、そのうえ髪を緑に染めて学校へ行き、先生より先に、先輩にシメられてしまった。
さすがに、小学校のときみたいには行かなかった。
相手は武器を使ってきて、苗子ちゃんは牙を折られた。
これは喩えじゃないですよ。
八重歯が一本欠けたのですから。
それ以来苗子ちゃんは引きこもっていて、わたしは、たまに冷やかし程度に遊びに行くだけ。たとえ苗子ちゃんの手を取って、連れ出したとしても、学校でもずっとその手を握っているのは不可能だ。
わたしはわたしのグループで、ピエロを演じなきゃならないから。
苗子ちゃんみたいにみんなから弾き出された人とは、関わっていられない。
だからあの頃の苗子ちゃんがわたしの前に戻ってきてくれることは、もうない。
それでいいさ。
そのままずっと引きこもって、静かに安全に朽ち果てていってくれればいい。のこのこ学校へ戻ってきて、もう一本の八重歯まで折られてしまうなんて、わたしは見たくないし、苗子ちゃんもきっともう、外は怖くて諦めたんだろうから、せめてわたしがときどき声をかけてあげようかなー、できる範囲で、自分に害がない範囲で……と思っていたんですが。
やっぱり引きこもっていても、苗子ちゃんは全然幸せじゃないのかもね。
今日、パフェ食べてるとき、カラオケの赤いソファの上に立ってデスメタル熱唱してるとき、二人で意味不明のポーズ取りながらプリクラ撮ってるとき、苗子ちゃん楽しそうだった。
たとえ外の世界に殺されてしまうとしたって、苗子ちゃんは怖がらないだろうし、傍から見て負けてても、本人は完全勝利で幸せに死んでいけるんじゃないか。
やっぱり苗子ちゃんは特別だよ。
わたしとは違う。
つづき⇒嘔吐と吐血 後篇(近日公開)