電車にて
コロナ禍が収まりつつある昨今でも、電車内で会話することには少しためらいを感じる。以前なら、新幹線などで長距離を移動する際は、隣り合わせた乗客と少し会話を交わすこともあったけれど、件のウイルスが猛威をふるうようになってからは、「車内での会話は最小限におひかえください」などというアナウンスが当たり前のように流れるようになり、くしゃみや咳をしただけでもにらまれるご時世となった。
けれどつい先日、電車で隣り合わせた乗客と素敵なひとときを過ごした。
その日私が乗った電車は、車両の側壁に沿って座席が設置された、よくあるロングシートではなく、二人用の座席が車両の長手方向に直角に設置されたクロスシートだった。休日の昼に乗ったその電車はやや混んでいて、空いた席を探して車内の通路を歩いていくと、窓側にすわってバックパックを横の席においていた女性が荷物を膝の上に抱えてくれたため、軽く会釈をして横にすわった。
数分後、その女性が話しかけてきた。
「あのう、すみません、この辺りは今日は寒いですか?」
一瞬、変わったことをきくなあと思ういっぽう、出かけるまぎわまで羽織るものを一着よけいに持っていくかどうか迷っていた自分をふり返り、こう答えた。「そうですねえ、日陰にいたり風が吹いたりするとちょっと寒いけど、日なたはあったかいですよ」。女性は「そうですか。名古屋から来たんですが、この辺りの気候はどうなのかなあと思って。さっきまで上にもう一枚着ていたんだけど、暑くて脱いだんですよ」との返事。先ほどの質問の真意がわかった。
「そうなんですか。名古屋はこちらより寒いんですか?」と逆に私がたずねると、「ええ、やっぱり少し寒いですねえ」とのこと。さらに女性は、「実はふだんはブラジルに住んでいて、久しぶりに帰国して実家の母に会ってきて、これから神奈川の姉に会いに行くんです」と言って、手に持った青春18切符を見せてくれた。そのあとは、飛行機での移動にパリ経由で40時間かかったとか、ブラジルの日差しは強烈で、すっかり日焼けしてしまったとか、あちらの日焼け止めは肌に合わないので日本製のものをたくさん買いだめしていくつもりだとか、快活に様々な話をしてくれた。
こんなふうに話をきいているうちに、私も自分の話をしたくなった。「私、サンバの楽器隊に入っていて、今日はこれから歌の練習に行くんですよ」と、歌詞のファイルを開いて見せると、女性は興味をもってくれたらしく、歌詞の意味をざっと教えてくれた。
そのうちに電車が目的の駅に着き、女性も乗り換えるとのことで、一緒に降車した。明るくて気さくな女性とのひとときがあまりにも楽しくて、「お会いできてほんとにうれしかったです。あのう、お名前だけうかがえますか?」ときくと、「タエコです。あなたは?」「シズエです。今日はお会いできてほんとうによかった! もし他の席にすわってたらこんなふうに話せなかったですものね」と言って、ハグしあって別れた。SNSをやっているかきこうかとも思ったけれど、それはあまりに厚かましいと考え直し、一期一会に感謝することにした。
黒髪のショートカットと浅黒く焼けた肌、知的な眼鏡がぴったり似合っていたタエコさん。どうぞお元気で。久しぶりの帰郷を心ゆくまで堪能してくださいね。