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全ては、うまく運ばれている。

「人の気持ちを解ろうとしていない。ということに、人は腹が立つのだろう。」
事態を話した時に、そんなことを言われた。


そうなのか?

いや、実は、私の中では「解ろうとしていた」のである。
しかもどちらかといえば、今回は、比較的慎重に、そして必死に。

今まで、解ろうとしてこなかったわけではない。
なぜなら、今ある人間関係と呼ばれるものを
ひたすら構築してきたのである。

今回も、同じように自分の中で相手を解ろうとし、
よく考えたうえで言動、行為にうつした。
そして、うまくいかせようとした。

が、
まさかの、そうではない、反応が返ってきたのである。

こちらは、呆然としてしたが、
なぜに、そんなことになったのか、
私は、その相手の思考回路と、その感情へのプロセスが
解らず、
最終的に、わかったことは、
相手を、さみしがらせた、不振に思わせた。
ということだった。

これが、わたしの中では、比較的というかかなり大切に思っている人からのアクションだったため、私もかなり大きな衝動におそわれてしまった。

私が相手をわかっていなかったのだろうか・・・
相手が私のことをわかっていなかったのだろうか

そんな感じでこちらも悲しくなったが、
起こってしまったことはもうどうしようもない。

こういうことが、起きて、すんなりと
そうだったんだ、お互いのことがわかり合えて打ち解け合えたよ。
ありがとう!
という時間だったわけでは、ナさそうな終わり方だったが、


ただ、どういう時間であろうと、
必要があって起きた出来事だったと思える。

私は、「うまくいかせようとした」けど「うまくいかなかった」状況と思っているのだが、
※ここで、思っているのは、私のマインドのレベルのことであって、

マインドレベルではなく、宇宙的視野でみると、実は、うまくいっている
要は、全てはうまく運ばれている、だけのこと。

起こるべくして起こったことは、
うまくいかなかったわけでもなく、うまくいったわけでもないが、

そうであることがただ起こっただけというなら、
どちらかといえば、
「うまくいっている」という感覚に近いのかもしれない。

起こることは、起きる。

実は、起こそうと思っても、起こせないのである。

私が大きな気づきだったのは、
私が、起こそうと思って、起こったことは、
私が起こしたんじゃなくて、
ただ、起こることが起こっただけにすぎなかった。
ということに気がついたことでした。

私ができる、私がやっている
私の力だ、私がなんとかできる

そんな次元で事は起きていませんでした。

極論、「勝手に、起きている。」という着地。

ああ、全ては大いなる何かのもとで起こっている。
起こることがただ起きているだけなのである。


そうであるものは、そうであるようになっているし、
そうでないものは、そうでないだけであって
ただただ、そうであるようになっていくだけにすぎない。


私は、うまくいかなかったと思っているかもしれないけど、
つまりは、私の宇宙の大きな流れの中では、
おそらく「うまくいっているうちの一部」なのだろうと思う。


この相手との関係性の中で
おそらく、自分の知り得ない部分で、
もしかしたら、終止符のようなものを
うちたかったのかもしれないし、
うつ必要ができてしまったタイミングなのかもしれない。

それは、これから先、私が、展開していく人生に関して、
このことは、起こるべくして起こったのだろう。

引き続き、無為自然の中で、

自分の中に、
こうしようとおもうようなことが、
沸き起こってくることがあればするし、
また、外部から、
何かアクションが起こってくることがあり
関わってみようと思ったらしてみよう。

そうしてみよう。



幼い頃の古い記憶を思い出そうとしても、確かな記憶はほとんどないが、もしかしたら、生きている実感、リアリティというかそういうのは、薄かったように思う。

さらに具体的にいえば、

うわ、こんなことがある!
よぉし!こんなことをしよう!
こういうの楽しそう!
してみたい!
欲しい!

こんな感じが、自分にあまりないなぁとは、到底解っていたことだが、周りをみたら、そういう「やる気がある感じ」のほうが、なんとなく良い感じであり、「そうではない自分」が、なんだか、ダメな感じというレッテルを貼られるのでないだろうかと、それはそれで、なんだか嫌というか、なんだか、世界にWelcomeされていないような感じになる。

おかれた家族環境の中でも、自分だけ変に特質な感じは周りに出しては「いけない」というような教えがあり、

自分の奇質※を出しては、いけないと、いつでもその衝動にかられてしまい、みんなと同じように、やる気が出ている「フリ」したり、楽しいと感じてる「ふり」をするのが、常になった。


※奇質 奇妙な質
気質、基質 というような変換あって、個人的に納得。
奇妙な質ではなく、気質とは、それぞれの氣、それぞれそれは、個性であり、そもそもの基質なのかもしれない。
ただ、もしかしたら、その気質・基質は他と違って、マイノリティかもしれないが。

そういうフリをしているというのは、自分でもわかってしているということは、極論かもしれないが
もともと、世界に対して、人に対しても、私の興味の持ち方が、もしかしたら、ちょっと特異だったのかもしれない。
いや、そんなこと、どうでもよかったのかもしれない。

興味は、いつでも 
「なぜ、生きている?」
「なぜ、私はワタシである?」

こういう分野は、なんていうんだろう
当時の私は、よくわからなかった。
いや、今でもわかっていない。

哲学的、宗教的、精神的・・・
どれもこれも、ピンとこず


なんとなく、この手の分野は、言葉で表現のない領域のことなんだろうなと思うが、言葉にしないとんだか「ふわっ」としてしまうので、そんなふわっとした話は、全く合わないという人も多くいると思うが、その反面、なんとなくわかる人も多くいると思う。
ただ、後者の人であっても、あからさまにそんなふわっとしたことを、ずっと考えたり、表現して生きているという人が、圧倒的に少ないとは、なんとなく感じる。


話は、戻るが、私は、常にそんなことに興味があった。
そして、今も、自分の在り方、存在に興味がわいて仕方ないのである。



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