トランスローカル論の認識論:世界は漣の立つ湖面に浮かぶいくつもの布からできている
『"トランスローカル論"という新しい概念をつくろうと思っている。』という一文からこのnoteははじまっている。
「論」と言うからには、その論から見た世界はどのように存在しているのかという認識論を持っている必要がある。
まだ組み立てている途中だけれど、今日はトランスローカル論の認識論について、今考えていることを書いておきたい。
1. 世界は漣の立つ湖面に浮かぶいくつもの布
トランスローカル論は「世界は漣の立つ湖面に浮かぶいくつもの布」でできていると考える。
布が浮かんでいる湖は「地球」を意味する。水面下は海の中や地下を、湖面は自然環境を、漣を起こす風は大気を意味している。いずれも湖の状態を決める要素で、そこに浮かぶ布のあり様はいつもこれらに左右される。
湖面に浮かぶ布は私たちの「社会」を意味する。いくつもの布はそれぞれ別の色をしている。染めものをしたときの洗いのときのように、布は水の中でそれぞれに鮮やかな色を出している。この色がそれぞれの社会のカラー(特性)である。歴史、文化、風土、言語などその社会を特徴づけるものがこのカラーを創り出す。
この布をつくっている縦糸と横糸の交わりは、人と人の「つながり」を意味する。これらの糸が縦と横に編まれなければ布の形は生まれない。
人々が何の関係性も持たず、ただある空間にいるだけであれば社会は形成されない。このつながりはお互いを家族ぐるみで知っているというような深いつながりもあれば、近所に住んでいて挨拶をする程度の浅いつながりでも成り立つ。
2. トランスローカル論の2つの視点
こんなふうに、漣の立つ湖面に布がいくつも浮かんでいる光景から世界を認識するトランスローカル論は2つ視点を持っている。
1つ目の視点は、トランスローカル論での「私」は、この湖面を見つめている視点のことではなく、浮かんでいる布のどれか一枚のうちのどこか一部として存在するということ。
自分を世界から切り出して湖面を見つめる存在として認識するのではなく、漣に絶えず揺られながら形を多様に変え続けている布の一部として「私」がある。楽しいことや嬉しいこと、あるいは困りごとは、世界から自分に向かってくるものではなく、自分も属している全体のあり様として起こる、という認識。
だから嬉しいこと、楽しいこと、困ること、あるいは社会課題と呼ばれるようなことも、それが起きてくる世界のなかにはじめから「私」も含まれて存在する。
2つ目の視点は、トランスローカル論では社会を一枚の布とはせず、複数の布で表現していること。湖面が地球なのであれば、その中にある布は1枚で、それがひとつながりのグローバル社会と言えそうだけれど、トランスローカル論ではここを否定する。
特徴ある個々の社会が多様な色の布として湖面に浮いて存在すると考える。例えば気候変動のような地球規模の変化についてはどの社会も平等にその影響を受けることになる。一方で、その影響をうける個々の社会の文脈(ローカリティ)は多様であり、だからそれに対する反応も多様 に現れる。
3. 多様性ベースの学びのデザイン
これからまた変わっていくかもしれないが、今のところトランスローカル論は「世界は漣の立つ湖面に浮かぶいくつもの布で構成されている」という認識論に立っている。そのうえで、これらの布の間のつながりをつくることで、お互いの社会がよりよい状態であるための方向性を考えることができるのではないか、という主張をする。
これはお互いの文脈(ローカリティ)を活かした多様性ベースの学びのデザインである。このことを反映して、比較的比べやすい同系色の布の間だけでなく、湖面の端と端に浮かんでいる対象の色の布をつないでいくことを提案する。補色の関係にある布どうしがつながったほうがお互いの特性が引き立つことになると考えるからだ。
多様性ベースの学びのデザインがどんなアクティビティとして体現化されて、それがどんな効果を生んでいるのかという論の実証については、続きのnoteにて。
つづく。