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国際開発学会第35回全国大会の振り返り - 想像できる範囲がミシミシと広がる音がする

先週末の11月10-11日は、法政大学とJICA研究所を会場に、国際開発学会の全国大会でした。今回は、人間の安全保障学会との合同開催ということもあり、紛争や気候変動、自然災害によって強制的な避難を余儀なくされた人たちの安全保障が大きなテーマの一つでした。

以下、今回参加したセッションと発表を聞いて興味を持ったテーマについての簡単なまとめを書いておこうと思います。1日目午前のセッションから時系列順で書いていますので、ご関心のある項目があれば、そちらにジャンプして頂くのがよいかと思います。では、さっそく一日目午前のセッションから振り返り。


1. ラウンドテーブル:国際学部の現状を考える

2024年現在で「国際学部」は34あり、内訳は国立1、公立2、私立31だそう。唯一の国立大学は宇都宮大学で、今年6月の春季大会の会場でもあった。この数は、国際関係学部などの、「国際〇〇学部」は含まないので、いわゆる「国際系大学・学部」はもっと多い。

ラウンドテーブルの目的は、国際学部のカリキュラムや学生の傾向を共有しながら、国際学部の今日的な位置付けについて議論すること。2040年以降には、少子化の影響で18歳人口が今の3/4になる。受験生の獲得がますますシビアになっていくなかで、国際系大学はどのように生き残りをかけるのか。私も国際教養学部に所属する教員なので、関心のあるテーマだった。

1-1. 教室のなかの国際化

特に面白かったのが、日本福祉大学国際学部の話。東海という元々外国人労働者や外国にルーツのある人たちが多く住んでいる場所にあり、加えてアジアの国々から福祉について学びにくる留学生が多いとのこと。ゆえに、国際化は教室のなかで起きていて、多文化共生は地元にあるものだそう。英語でのコミュニケーションやグローバリゼーションの影響について学ぶといった、どこか手垢のついた「国際」ではなく、リアルな感じ。

地元自治体向けに多文化共生をテーマとした研修プログラムを担当しているそうで、留学生たちが講師役として参加する。彼らの満足度もとても高いそう。「国際」が完全に内在化された大学教育になっていたし、留学生たちがどこかお客様扱いではなく、大学が実施している研修の主役、というところがとても良いなと思った。秋田でもぜひやってみたい。

1-2. 途上国のほうがよほど進んでいる

国際開発学も国際協力という枠組みのなかで、途上国を研究と実践の場として捉えてきた。しかし、こうした枠組みだけでは、もはや私たちは国際開発学を語れなくなっているということの証左だろう。国内における国際化や多文化共生というテーマに、私たちはどう向き合っていくのか。

正直なところ、このあたりは私たちが「途上国」として捉えてきた国々のほうがよほど進んでいて、私たちは学ぶことしかない。「内なる国際化」と格好良く言ってみるが、国際協力や開発学分野の知見が、"途上国"とラベリングされてきた国々から"先進国"と自負してきた国々に還流してきている。敢えて「逆流」と言ってもいいほどに、知識や技術が一方から一方に提供されるのではなく、双方向に行き交う関係性になっている。国際系大学・学部とされている場所は、こうした知見の双方向性を活かしながら、より魅力的なカリキュラムやキャンパスの環境をつくっていける場所だと言えそうだ。

1-3. 学際性は誰に宿る?

セッションの議論のなかでもう一つ興味を持ったのが、「学際性は、ひとつ基準になる専門がなければ、身につけることができない。」という論点だった。国際学部は、グローバル化や多文化共生などを扱うので、必然的に複数の専門分野を横断する。複数の専攻が連携できるように、国際学部という場があり、そこでは学際性がひとつの特徴になる、ということだった。

学際性(interdisciplinary approach)は、自然科学、社会科学、応用科学、人文といった異なる学術領域のなかに、個別に体系化されてきた学問分野の知識を横断的に用いて、研究テーマについて考えていく、という方法論だ。なぜこうした方法の必要性が高まっているのかというと、世の中で起きている現象や課題というものが、専門性の仕切りをとうの昔に越えていて、さらにその構造がどんどん複雑化してきているから。

例えば、気候変動という事象を理解するには、当然のように気象に関するデータが読めなければならない。そして、その影響について考えるには、農業や漁業、人々の消費行動やゴミ処理の問題、資源や再生可能エネルギー、防災やまちづくりなどなど、実に多様なトピックについての視点が必要になる。言ってみれば、学際性とは、「複数の要素が複雑に絡み合って存在する事象について、その複雑性を認め、専門による要素分解をせず、複雑なままに扱う」という問題との向き合い方、と言っていい。国際学部は、国際関係や多文化社会でのアイデンティティの問題などを扱うため、複数分野を横断した知識体系が必要であり、そのために学際性が求められる、ということだ。

さて、この学際性だが、どのように身につけることができるのか。セッションでは、「学際性を身につけるには、そもそも自分自身の軸になる専攻がなければならない」という意見があった。背景には、「異なる専門領域での考え方を理解するには、まずは自分自身の軸となる専門を持っていなければならない」といいう前提があるようだ。はて、本当にそうなのだろうか。この点については、リベラルアーツ教育とつなげてじっくり考えてみたい。とても良いテーマをもらえたセッションだった。

2. 11/10 午後 「不確実な時代の国際協力と人間の安全保障」

1日目の午後は、両学会合同のプレナリーセッションだった。残念ながら定員締切で参加できず。参加申し込みが遅くなったので仕方がない。飯田橋駅近くのスタバで原稿作業。セッションのまとめは後日に学会ウェブサイトに掲載されると思うので、そちらをぜひチェックいただけたら嬉しい。

3. 総会

国際開発学会は第12期執行部が昨年度からバトンを受け継いで、学会全体の運営にあたっている。12期がはじまってちょうど1年目が過ぎたところだ。

総会では、学会賞や奨励賞などの発表があり、そのなかで学部生を対象とした賞を受賞した学生さんが、「いわゆる文系の領域を選考していて、学部生の段階から学会賞に出せる機会が、私が調べたなかでは国際開発学会だけだった。こうした機会を提供してくださった学会執行部の皆さんにとても感謝している。」というコメントがあった。こういうコメントを聞けるだけで安心する。同時に自分が若手を育成する側に周ってきているのだなということを実感する。

4. 一般口頭発表:学校の内と外:教育の存立基盤を見つめなおす

二日目の午前は、口頭発表のセッションに参加した。大阪大学の澤村先生が発表していた、ナイロビ・キベラスラム内の私立学校の運営に関する発表がとても面白かった。

UN-Habitatによる2007年のレポートで、スラムは経済成長の結果として生まれた負の要素ではなく、むしろ「市場の失敗ではなく成功であり、低価格の住宅と貧困層に提供し、経済的に有効である」と位置付けられている。澤村先生はここに着想して、スラムのなかの学校経営を特に先生たちの視点から長年研究されてきている。

4-1. その日暮らしの学校運営

今回の発表では、「その日暮らしの学校運営と子どもたちの包摂」がキーワードとして挙げられていた。その日暮らしをしている人たちばかりが暮らしているスラムなので、授業料も全額払えない場合も多い。半額や時にはまったく払えない世帯もあるのだが、それでも授業料の支払いの違いによって、授業が受けられないということがないそうだ。つまりはフリーライダー状態の子どもたちが混じっているわけだけれども、学校運営としては、授業料を支払うことができない家庭の子どもたちも受け入れているそう。

政府からの支援金をもらうために児童が支援対象の学校に所属していることを証明する必要があるそうなのだが、そういうときには支援対象となっている学校に通っている友だちから制服を借りてきて、それを着て撮影した証明写真を書類に添付するそうだ。そうしたインストラクションも学校側がしているとのこと。実に逞しい。

そして先生たちも低賃金で働いていて、しかも支払いがあるのは学校にまとまった収入があったときのみ。つまり、教えている先生の側もお金に苦労している。1回にもらえる給与は、1,000~2,000シリングの間で、約7〜14米ドル。これでは教師の離職率は高くなってしまうのだが、同時に新しく教師に就く人も多いので、学校として教師不足の状況にはならないそう。

結果的に、その日暮らしの学校運営が行われ、まさにその日暮らしの家庭の子どもたちに教育機会を提供しているそう。単にアフリカ一大きいスラムのなかで次世代育成のために学校を経営している人たちを助けよう、という関わり方ではなく、まずはそこで何が起きているのかを丁寧に掘り下げていく。研究だからできることだなと思った。

4-2. 日報というデータコレクション

澤村先生のこのナイロビでの研究期間の一部はコロナの影響を受けて、2年間ほどまったくフィールドに入れない時期があったとのこと。この間、どのようにして現地側の様子を把握していたのかというと、校長先生とのEメールでの日報のやりとり。校長先生にはボランティアで毎日その日の学校での出来事をメールで送ってもらっていたとのことだった。これは斬新なデータコレクション方法でとても興味深かった。

有償でもやってみたそうだが、お金が介在すると、先方もお金をもらうためにやること、という風になり、嘘の内容を書いて送ってくるそうだ。研究者とのやりとりに個人的な意義を感じている場合のほうが、きちんとその日ごとの学校の出来事を送ってきてくれるそう。

なぜボランティアの先生が嘘を書いていないとわかるのかというと、それは行事の日時の記述がとても細かく、かつ正確だからとのことだった。確かに、出来事をでっちあげるのは簡単だが、日時を前後の週や月と整合性を持たせて作り上げるのは難しい。なによりも、澤村先生とその学校の先生との関係性が可能にしたデータコレクションの方法だ。そこに深い信頼がなければ成立しない手法だ。カッコイイ!

4-3. 研究されることで促されること

学校運営のメカニズムを知るのもとても面白かったのだけれど、私がいちばん興味を持ったのは、そうして日報を毎日送り続けた校長先生の心の変化だった。そもそも学校の記録として日報を書くことが校長先生のルーティーンだったかもしれない。それでも、本来であれば学校の内部だけに止まる記録を、遠い日本の研究者に毎日送り、そしてコメントや質問を受けることは、その校長先生に何らかの変容を起こしたのではないだろうか。

ちょうど文通のようなもので、まだ会ったことも、直接話したこともない相手との手紙のやりとりによって、不思議と自分の周辺の人には相談できないようなことや今度やろうと思っているアイデアについて話すことができたりする。そういうことが日報のやりとりのなかであったのだろうか。

もう少し広くとらえると、私たち研究者は、研究される側の感情について、どのくらい丁寧に向き合うことができているのだろうか。これだけオンラインが一般化した社会では、SNSやメールなどで、いとも簡単にオンラインアンケートを「協力へのお願い」メッセージと共に、多くの人たちに送ることができる。統計分析をするタイプの調査であれば、サンプルが多ければ多いほど結果が平準化されるわけだし、データインプットもほぼ自動でされるので、なんとも効率が良い。しかし、このことは、本来は調査実施の手前にある対象者との信頼関係づくりを、まるですっ飛ばしてしまうことを可能にしている。皮肉だけれども、研究者でこうしたアンケート調査の設計に詳しい人ほど、ランダムに依頼される調査協力に対してシビアであったりする。

澤村先生と校長先生との間には、「研究する者・される者」というような二項対立的な分断はおそらくないのだろうと思った。そうした信頼関係があるなかで行われる研究プロジェクトは、多くの場合に関わる人たちに意識の変化を生む。ここのところについてぜひ質問をしてみたかったのだけれど、科研の審査項目に基づいたディスカッサントのからの質問でで時間切れになってしまった。ぜひ次の機会に聞いてみたい。

自分も南アフリカの農村コミュニティを対象に8年間研究をしてきたけれど、澤村先生の蓄積にはまだまだ遠く及ばない。自分もあと20年くらい続けていくことで、その間に起きる心の動きや身体的な経験を通じて、今はまだ見えていない景色が見えるようになるのかもしれないと思った。少なくとも、続けていった人にしか得ることのできない感覚がありそうだ。そう考えると、これからも続けていきたくなる。

5. まとめ:発想できることは、想像できる範囲の広さに比例する

今回の大会も、国内の大学の国際学部の話、ケニア・キベラスラムの学校運営の話、パラグアイの学校給食の話、パターンランゲージを用いたフィリピン人出稼ぎ労働者向けの研修プログラムの話、南アフリカの農村に暮らす若者のエイジェンシーの話、そしてブータンの公教育と寺院教育の関係性についての話と、学会員が各地で追いかけている研究テーマについての発表を、2日間でじっくりと聞くことができた。

国際開発学会のよいところは、自分がまだ訪れたことのない場所で、聞いたことのない課題について、実践したことのない方法で研究や実践をしている人たちの話がたくさん聞けることだと思う。

「発想は移動距離に比例する」という名台詞のようなものが、経営やイノベーションについてのウェブ記事で頻出する。実際に誰が言ったのか調べてみたが、どうも特定の個人ということではないようだ。それでも、直感的に正しいと感じる人は多いだろう。

休暇にいつもと違う場所に出かけたときに、風の感じや陽の差し方が違うことに気がついたり、人々の言葉づかいや振る舞いが慣れ親しんだそれと違ったり、同じ材料でもまったく別の調理をしていて美味しかったり、そういう経験をすることは多い。そして、自分のいつもの場所に戻ったときに、それまではとはまた違ったものの見え方ができるよういなる。そうしたときに、ハッと何かに気が付くように、新しいことを思いつく。これが革新的なアイデアであることが打率的には高い。

さて、発想の数は多くなるかもしれないけれど、質のほうはどうだろうか。新しいことを思いつくと発想の転換にはなるけれど、そこから長続きはしない。そのときには深さや質が求められる。

学会で発表してくれる方々はみなさん移動距離も洞察の深さも伴っていて、しかも先行研究や課題の所在、フィールドの社会経済状況などを、順序立てて丁寧に説明してくれるので、参加費5,000円は相当にコスパが良い。実際に今回の大会は、一般参加の方が100名を超えていた。

「発想は移動距離に比例する」を自分なりに言い換えるとすれば、「発想できることは、想像できる範囲の広さに比例する」なるだろうか。国際開発学会に参加すると、いつも自分の想像できる範囲がミシミシと音を立てて広がる感覚があって、とても楽しい。同時に2日間の議論を終える頃には、頭がクラクラするくらいに疲弊する。知的な活動には体力がいる。

次回の大会もどんなミシミシとクラクラに出会えるか、今から楽しみだ。


*国際開発学会のご紹介

国際開発学会は、大学や研究期間に所属する教育・研究職の方が全体の半分、そしてもう半分が国際協力や国内での多文化共生などに携わる実務家の皆さんで構成されています。そのため、一般的な口頭研究発表の他に、ラウンドテーブルや企画セッションなど、実践や教育よりの内容を扱うセッションも多く用意されているので、関心のあるテーマをみつけやすいのも特徴です。入会も一般会員から学生会員まで色々なステータスがあるので、比較的入りやすい学会ではないかなと思います。

いわゆる「国際系」と呼ばれる学部・研究科や組織に所属していない方でもけっこう楽しめるテーマが多いと思います。まずは、一般参加として大会を見に来て頂くのが個人的にはオススメです。ご関心のある方はぜひぜひ国際開発学会のウェブサイトをチェックしてみてください。

加えて、会員になって大会を組織するのも、国際開発学分野で活躍する研究者や実務者の皆さんと数ヶ月にわたってご一緒できるので、たくさんの学びがあります。大学や国際協力分野、民間企業や自治体にて国際的なつながりや多文化共生分野等に携わっている皆さんには、ぜひ組織側にもご参加いただけたら幸いです。

国際開発学会ホームページはこちら:


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