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自由の国|第1章 イングランドのアメリカ難民|アメリカでの40年間(1821-1861)

Forty Years of American Life 1821-1861
Thomas Low Nichols


自由の国

「自由の国、勇者の故郷」は、とても住みにくい場所になってしまいました。

ある日、東ニューヨークに住むドイツ人が、アメリカの連邦のために戦うよりもヨーロッパの王のために戦ったほうが、まだましなのではないかという意見を言ったのです。警察官が近くにいなかったため、愛国心の強い輩が彼の首にロープをかけ、木の枝に吊るしました。運よく警官がやってきてロープを切り捨て、そのドイツ人は命拾いすることができました。彼はコーヒーハウスで戦争政策に反対し、共和党員にテーブル越しに射殺された民主党員よりはまだ幸運でした。その共和党員は、火薬と鉛こそ、このような場面で使うべきだと考えているような連中でしたから。

ワルシャワやヴェネツィアでのかなり厳しい慣行について読んだことはあったけれど、実際のところ、民主党の大都市ニューヨークは、自分の意見を言いたい人にとって、かなり危険な地域になりつつありました。

どちらを選ぶのか?私の選択は決まっていました。

しかし、その反対側には強い誘惑があったことも事実です。大国の誇りと栄光、すなわちアブラハム(預言者)の高台とモンテスマ(アステカの王)の広間を誇る大帝国です。私も同じように夢見たことがあります。私はケベックの城塞とハバナのモロ城に「星条旗」がたなびく時を心待ちにしてきました。そして我々の艦隊は両側の海、すなわち太平洋と大西洋を掃討すべきであり、それが唯一の国境であるべきなのです。

しかし、国力や栄光よりも大切なものがありました。アメリカの共和国は政治的自由の原則に基づいていました。しかしもはや国民の自由な選択はなくなり、たとえ一つの州に対してだとしても武器を向ることになったとき、私にとって連合はまったくもって魅力を失ってしまいました。連合の最小の部分がポーランドになったとしても、私は援助する必要があると思います。すべての州は「自由・主権・独立」をもって連邦に加盟したのであり、今後もそうあるべきです。

連邦の11州が分離独立法を可決し、ワシントンから代表を呼び戻したとき、私は祖国の一部を失ったと感じました。北部が南部を再び追い返すために戦争を仕掛けたとき、私にはもはや自分の国はないも同然でした。私は軍事専制主義には何の義務も負っていません。そしてスワード氏がパスポートなしで国民が出国してはならないと命令したとき、私はもうアメリカを離れる時が来たと悟ったのです。

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