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沈黙か牢獄か、または追放か|第1章 イングランドのアメリカ難民|アメリカでの40年間(1821-1861)
Forty Years of American Life 1821-1861
Thomas Low Nichols
沈黙か牢獄か、または追放か
取るべき道は 3 つ。南に行くか、北部で殉教の危険を冒すか、海外に避難するかでした。
南に行って南軍に加わることもできたはずです。ポトマック川やオハイオ川を渡ることは可能でした。しかし、北部のやり方に反対するという立場を表明することと、実際に北部に対して武器を取ることはまた別の問題です。アメリカ独立戦争において、反逆の罪で投獄されることなく、自国政府の行動に反対したイギリス人がいました。しかし彼がマサチューセッツや ヴァージニアに行き、王室に対して武器で戦ったかといえば、それはまた別のことだったでしょう。今回の私の立場がこれに当てはまるケースかどうかはわかりません。私には、ニューヨークからアラバマに忠誠を移す権利がありました。それでも、隣人や友人、近親者に対して武器を取ることは、男として避けなければならないのです。
どちらの軍隊でも同じだったでしょう。どちらにも友人がいたのですから。私は北部の兵士として、南部の故郷のもてなし方で私を歓迎してくれた勇敢な男たちの血を流したかもしれません。温かな友情で私の手を握り、社交の楽しい時間を共に過ごした男たちの血で、私の手を染めることができるでしょうか?私の気高く優雅な女主人であるあの美しい女性を未亡人にし、彼女の美しい子供たち、魅力的な娘たちを孤児にすることが、どうして私のためになるのでしょうか?息子として愛した少年を、兄弟として抱いた男を、銃剣の先でいつでも見つけることができたかもしれないのです。
南部と戦うことなどできませんでした。腕をガチガチに硬直させて銃を構え、心を鬼にする権利などありませんでした。私は戦争が不当だと感じていたし、戦争が悲惨なものであると同時になんの利益ももたらさないものだと確信できるほど、南部についてよく知っていました。また、南軍に家族を連れて行くこともできませんでした。彼らを置き去りにすることなどできず、結局私は危険にさらされながら北部に留まるしかなかったのです。ある日は街頭で論争になり、またある日は政府の見解に沿った以上の真実が公表されました。
文明世界のどこででも、このような困難に陥ったとき、人は本能的にイギリスを思い浮かべます。安全な亡命先があるのです。そこでは、どんなに貧しくても、孤独でも、友だちがいなくても、自由でいられるのです。安全な場所は大西洋のうねりの向こうにありました。そして私には、先祖たちの土地、彼らの歴史があった土地で亡命を申請する権利があるように思えました。その土地は百世代にわたって先祖らの塵と灰でできていましたから。