大陸横断紀行
アマンダとわたしの関係が、山と谷を越えた二年後、わたしの人生が大いに揺さぶられることになった。学期終わりのある日、わたしの母親がわたしの学費をギャンブルで使い果たしてしまった事を知ったのだ。元々母はギャンブル依存症で、日中はパチンコを打ちに行くという自堕落な生活を送っていた。そんな彼女が、アメリカに渡米してきたのは、わたしが州立大学に編入した頃だった。そもそもわたしが小学校卒業まもなくアメリカへ送られたのは母親自身がその頃から渡米したがったからであり、「子どもの勉強の為」というのはただの都合がいい大義名分に過ぎなかった。しつこく自分の息子のアメリカ留学を主張し続けた結果、父親はそれに屈して、わたしを当初は母方の親戚のうちに預けたのであった。
元々勉強熱心でなかったわたしであったが、大学に入学してからは自分から学問の世界へのめり込んでいった。それは、母が渡米してきて、サンノゼに移り住んだ後も変わらなかった。わたしは朝一番の高速バスで家をでて、ほとんどの時間をキャンパス内で過ごし、むさぼるように勉学に励み、最終の高速バスで帰っていた。母親が渡米した当初は例のギャンブル癖は見せなかったが、そのうち近辺にーといっても車で片道5時間かかるような僻地だがーにインディアン・カジノを見つけてから事が変わった。母は、わたしが勉強にのめり込んでいったようにスロットマシーンにのめり込んでいった。そして等々金を使い果たしてしまったのである。州立といえど学費は高い。到底工面できる額でもないし、奨学金を得ることも恥と捉えて考えることもなかった。そんな途方に暮れていた時期、その秋に大学に入学予定のアマンダにこの事をはなした。
「‥それだったら、いっそのことわたしと同棲しよ?」
「でも君はペンシルベニアの大学に進学するんだろ?僕は卒業までの一学期をどうするんだい?」
「休学してその間になんとかしようよ、その間にあなたのことを支えるから」
其処まで行ってくれたのはありがたかったし、いずれわたしはアマンダと結婚する気持ちでいたので、それに承諾した。母親は、金に苦労させないと言ってネバダに行って「稼いでくる」という。正直彼女の不安定さに限界を覚えたわたしはそれに異議をとなえないことにした。なんだかんだ言ってこの人自分の子供を都合が良いように使うことしか考えていない、極めて利己的な人間で、そんなのは治りゃしない。人間なんて所詮変わることなんてないんだ。
そもそも自らの人生を振り返って思えば、女性に振り回される惨めなものであった。母親にせよEにせよ他の連中にせよ。そしてそれは激しい自己嫌悪を同時にもたらした。わたしはいつも彼女らに対して無力で、そして彼女らの機嫌取りのためだけにいつも自分の大切な物は手放す羽目になる。彼女らのせいにしたことは一度もなかったが、自分の境遇をただただ呪った。
なにはともあれ一年別の道を歩んだ後に再会すると決めたわたしたち親子は、六月の半ばに家財道具を全て貸倉庫にぶっこんで、それぞれの旅につくことになった。前回はグレイハウンドでとんでもない大陸横断の旅をしたので正直な所あまり乗り気ではなかったが今回の旅には強力な相棒がいた。その相棒とは赤い車体の1993年式レクサスES300である。2.5リッターV6エンジンを積んだこの鋼鉄の馬は、あの地獄のような旅を100倍に快適にしてくれるはずだ。ペンシルベニアなんてあっというまだ。わたしは、新たな旅に向けて自信と不安の両方を覚えながら荷造りをした、といっても貸倉庫に持ち物の大半を預けてあるのでスーツケース1個の身軽な旅支度であったが
つづく
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