奈落⑰
フィラデルフィアにきたのはいいものの、ホテルの平均価格が圧倒的に高いこの場所で三日間どうしろというのだ?結局アマンダも大学の方に置いとく方が自分自身へのリスクが高いと思ってこっちに連れてきたんだろ?まったくあいつはどこまで馬鹿にしてんだ?そう思いながら仕方がないのでその朝は駅のターミナルで旅行者を装いながら過ごした。装うといっても、どこかに向かっている途中という意味では私も旅行者のようなものだった。ただ彼らとの違いは行き先が定まってないというだけで。
昼になり腹が減ってきたので、駅のフードコートで飯を食うことにした。今はなくなってしまったようだがその当時にはフードコートが駅のコンコースの端にあり、定番なアメリカ料理の他にもペルシャ料理やらチャイニーズと、様々な店が軒を連ねていた。わたしは久しぶりにペルシャ料理が食べたかったので、そのカウンターへ向かった。ロサンゼルスにいた頃は、アメリカでも最大の亡命イラン人のコミュニティがあったこともあって、ペルシャ料理はよく食ったものだった。わたしはケバブのプレートセットを注文し、呼ばれるのを待った。そして自分の番が来て取りに行くと、そこのオヤジが
「これサービスでつけといたよ。オレたちアジア人は仲間だからなあ」
と余計に盛られた揚げ物を指しながら親しげに言ってきた。
「アジア人同士」という言葉は、ペンシルヴァニアに来るときに聞いた言葉であったし、大統領がわたしを雇った際に言った言葉でもあった。アメリカ東部ではそれだけアジア人というだけで仲間意識を持つのであろうか。西海岸では決して聞かなかった言葉にしんせんみをおぼえたのはたしかであった。西海岸では、日本人は日本人、韓国人は韓国人、フィリピン人はフィリピン人と、明確に分かれたアイデンティティを持っていた。それはただ単にそれらのグループが大きい人数規模を誇っていたからなのか。それともそれだけ東部での差別が激しいということなのか。いずれにせよわたしはうれしかったし、その親切心に心から感謝した。
さて、食事を済ませて腹を膨らませたわたしはターミナルの待合室にもどりベンチに座った。そして本を読んでいるうちに睡魔に襲われて軽い昼寝をしてしまった。次に目を覚ましたのは夜もだいぶ更けた頃で、周りは家路につく乗客でごった返しているところであった。みんなそれぞれ忙しなく動いているのをみて、改めてわたしは自らの、帰る家を失ったものならわかる、絶望感に襲われた。一体これからどうすればいいのか。
つづく