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自然な英語なんか目指さなくていい

ネイティブならではの自然な英語、自然な表現を目指そうというムーブメントは昔からあり、また、そのような謎のプレッシャーに苦しめられている学習者は多いと思います。今回は、「自然な英語なんか目指さなくてもまったく問題ない」という話をして、学習者の肩の荷をひとつおろすための一助にしたいと思います。

自然な表現とは何なのか

まず、世間一般の認識を確認するために、「ネイティブから英語を学ぶ利点」というちょっと恣意的なキーワードで Google 検索をしてみました。この検索ワードでいろいろな記事がヒットするのですが、ネイティブならではの自然な表現を学べるとか、自然な音で学べるとかの、自然というキーワードを使用した記事がワラワラとヒットします。

たとえば、オンライン英会話サービスを提供するネイティブキャンプの以下の記事では、次の引用のように述べられています:

…日本人なら「どっと疲れが来た」と言うところを、ある外国人が「ドンと疲れが来た」と言っていました。この外国人の日本語は、読み書き話し言葉すべてが自然で文法も完璧ですし、言われなければ外国人だと気づかないくらいかもしれません。
…ノンネイティブの英語講師たちにも、こういった現象はどうしても起こります。これは、ノンネイティブの講師たちは英語が流暢であっても、現地に住んでいるわけではないので、日常的に口にする英語に「外国人らしさ」が出てしまうのです。

https://nativecamp.net/blog/study/12626

まず、上記の引用では、「外国人らしさを表に出してはいけない」という暗黙の了解がありますが、これはおかしいです。日本人英語話者の場合であれば、日本人であると察することができる要素を表に出してはいけないということになりますが、その思想が過激というか、的外れというのはなんとなく理解していただけると思います。

また、どっと疲れが、をドンと疲れが、と表現したとありますが、別に問題はありません。たとえばシェイクスピアは、Her art sisters the natural roses. のように、sister を動詞として作品の中で使用しています。辞書を調べても sister は名詞としてしか使えないと書いてありますが、シェイクスピアは sister を動詞に「転用」したわけです。

意味の通じる範囲であれば、クリエイティブで大胆な転用は許容されます。シェイクスピアがやっているのですから、その使用域で意味が通るのであれば、大胆な転用は誰がやっても問題ありません。ドンと、という表現は、シェイクスピアと同じ理由で許容されますし、むしろクリエイティブであるといえます。

「機能」と「印象」はわけて考えるべき

ここまでで、自然かどうかは、ノンネイティブらしさがにじみ出ているかどうかである、というのが世間の認識であることを確認しました。

繰り返しですが、日本人らしさ、ノンネイティブらしさを表に出さないことがよいことであり、ネイティブに寄せれば寄せるほどよろしい、というのはちょっとずれています。日本人っぽさが表に出ることで「印象」は変わりますが、「機能」は変わりません。

自然か不自然かというのは心底どうでもよく、「機能するかどうか」を、唯一不変の指標として使用すべきです。クリアに伝わる、メッセージがヴィヴィッドに伝わるならよろしい、相手方が頑張って察しないと伝わらないとか、聞き返しが多く発生するのであれば問題である、というシンプルな分け方をすべきです。

さいごに

世の中一般では、ネイティブ=自然、ノンネイティブ=不自然、というイメージがこびりついているようで、これが学習の足かせのひとつになっているように僕は感じます。「機能するかどうか」がとにかくすべてであり、「印象」にかかわる要素はこれとわけで考える必要があります。

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