トランスジェンダーと厄年:節目との付き合い方
2025年が始まり、気づけば1週間。今年、女性なら厄年にあたる年齢だというが、FtM(女性から男性)である私は一体いつが厄年にあたるのだろうか?
日本には子どもから大人になる過程で、お食い初めや七五三、成人式など、子どもの成長を祝ったり、長寿を願う文化がある。それと同時に、人生の節目を「厄年」として忌み慎む習慣もある。この風習は平安時代を起源とすると言われている。
どうやら科学的な根拠はないらしい。厄年なんぞ、単なる迷信や風習の一つだと思っていた。けれども、昔からある風習には何かしら意味や裏付けがあるに違いない。そんな時に風の噂で聞いたのが、厄年は昔から病気になりやすい、心身や生活の変化が訪れやすい適齢期を表しているという説だ。迷信というよりも、統計的に不調をきたしやすい年齢となれば、用心せざるを得ない。
友人と厄年の話になった際に「そういえば、ダイチは厄年いつなんだろうね?」と聞かれた。「え、それは生物学的に?占い的に?無いっしょ、厄年!」と答えると、パートナーはすかさず「男と女の厄年、どっちもじゃん?笑」なんて意地悪を言った。
女として生まれたものの、物心ついた頃には女児として生きることに苦痛を感じていた。そんな私は三歳の七五三で、綺麗に結ってもらった髪飾りを親の目を盗んですぐさま振り解き、ボサボサの髪の毛と仏頂面でしっかり写真に収まった。兄のように黒い袴を着たかった…到底親には言えない心のうちを隠すために、終始眠くてぐずったフリをした。そんなせめてもの抵抗が、親の目にはただの不機嫌に映っていたのだから切ないものである。後に母は私が一日中不機嫌であった理由に納得したそうだが、当時の私の姿は相当に印象的だったらしい。
FtMというよりノンバイナリーを自称する今は、自身のことを男性だとも女性だとも言い切れない。かつて女性として順応しようとしたことも、今男性として生きていることも、どちらも受け止めていきたいという想いがそうさせるのかもしれない。
「いやいや、生まれてからずっと厄年みたいなもんだから、トランスに厄年なんてあってたまるか!」と私は本気で思っている。
しかし、厄年が心身の変化を表しているという説に触れると、近ごろの自分の体調不良も、ある種の"節目"として見直すべきなのかもしれないと感じ始めている。最近はどうも胃腸の調子が悪い上に、持病の腰痛が悪化しているのだから。男も女も関係なく、日頃の健康管理を見返した方が良いお年頃に間違いない。
七五三や成人式などを思うと、私には苦い思い出が多い。おそらく装いの面で、これらの節目では自分のジェンダーを自他に表明するような場であるのが大きく関与しているだろう。
さらに結婚に関して言えば、同性婚が認められていないので、今も戸籍上女性の私は、長年付き合っているパートナーとの結婚も未だにできていない。
こんな風に嘆いていても仕方がないし、そもそも同性婚が認められていないのは厄年のせいでも、今年に限った話でもない。笑
髪を振り乱し、不機嫌を最大限に表現することでしか抵抗することができなかったかつての自分の名演技に報いたい。精一杯好き勝手を楽しむために、厄なり節目なりとはそれなりに仲良くやっていきたいものである。