キナリ杯に感謝を込めて
こんばんは、寅三奈と申します。
この度、岸田奈美さん主催のキナリ杯にて準優勝2をいただきました。岸田奈美さん、本当にありがとうございました。感謝してもしきれません。また、キナリ杯協賛者の皆様、私の記事を読んでくださった皆様、コメントをくださった皆様、スキをくださった皆様に御礼申し上げます。
伝えたいことはもう書き終えてしまいましたが、せっかくの機会なので、岸田奈美さんからいただいた講評と共に、記事についての振り返りをしたいと思います。
キナリ杯に応募した記事はこちらです。
これから読んでくださる方のためにあらかじめお伝えしておきますと、私の文章は、お腹が捩れるほど大爆笑するものでも、感動の嵐が湧き上がるものでもありません。ただ、少しズレた方向へ無駄知識をアツく語る記事ではあります。読み手のツッコミを待つというシュールさが特徴かもしれません。
そのため岸田奈美さんの講評を拝読した時、なんと的確に捉えてくださっているのだろう・・・と感銘を受けました。
タイトルとリード文を見て「ああ、夫婦で深い話をした日の気づきのnoteかな」って思ったら、いきなりアメリカの地図と州名が目に飛び込んでくるインパクトったらないです。しかも出オチじゃないんですよ。ちゃんとnoteで一貫して意味を持つスーパーアイテムになっているんです。良い意味で期待を裏切り続ける天才。世紀末の魔術師。
(引用元:【キナリ杯受賞発表】準々優勝・準優勝 )
世紀末の魔術師。嬉しすぎるお言葉です。一生忘れません。
カテゴリ混ぜこぜ文章にした理由
エッセイだと思い読み進めているのに、いきなり読者に向かって解説し始める文章。漫画などでよくある『説明しよう!』といったナレーションを彷彿とさせたかもしれません。エッセイなはずなのに、小説ばりに細かい描写。
一つの文章の中に、エッセイ、コラム、小説…とカテゴリを混ぜこぜに詰めたのは私にとって初めての試みでした。ルールから外れた書き方に面食らった方もいらっしゃったかもしれません。
そんな文章に仕上げたのは、私なりの『自由な文章』を書きたいという思いがあったからです。
私は大学時代、週二でレポートを提出する毎日を送っていました。土日を削り、実験結果から導かれた結論を、決まった形式で淡々と書いてゆく。達成感はあったものの、楽しさを見出すことはできませんでした。
さらに当時気になっていたのが、実験前に配布される資料の難解さ、そしてそこからくる置いてけぼり感。サラリと「Aの事象を証明するためにBをして・・・(以下略)」と書かれたプリントを見て、また知らない単語が出てきてしまった、としょんぼりしながら辞書を引く。
そのため今回キナリ杯に応募した記事では、そういう置いてけぼり感を少しでも解消できて、なおかつ自分が書いていて楽しいと思える自由な文章を目指しました。普段あまり馴染みのない単語が出てくれば、すぐさま注釈をつける。アメリカの州の名前が出てきたら、地図に色をつけて添付する・・・その結果、気づけばカテゴリ混ぜこぜ文章が出来上がったという訳です。
その混ぜこぜ文章を岸田奈美さんに『絶妙』と言っていただけたのは、自由なままでいいんだよと肯定してもらえた心地でした。
夫婦の会話パートと、「ではここから地図にもどりましょう」の地図解説パートの行き来が絶妙で、そういうバラエティ番組を観ているような気分になります。そして二人の異なる性格をそういうものだとスルーするのではなく、未知と既知の捉え方の違いをわざわざ分析して言葉にすることに、旦那さんへのリスペクト、二人でともに過ごす時間の尊さが伝わってきます。
(引用元:【キナリ杯受賞発表】準々優勝・準優勝 )
夫の反応
2020年6月3日の我が家の夕食は、キナリ杯の話題で持ち切りでした。
「これからも、僕のことネタとして使っていいよ、何ならフィクション作っちゃってもいいよ」と夫。
「心広いね…ありがとう!」
私はそう御礼の気持ちを伝えましたが、夫のことを無理矢理ネタにするつもりはないし、フィクションで架空の夫を作り上げることもしないよ、と心の中でつぶやきました。もしそうしてしまったら、フィクションとしての楽しい文章は生まれるかもしれないけれど、事実であるからこその鮮やかさは失われてしまう。
「賞金は全部自分のために使っていいよ」
「そんなそんな、落ち着いたら一緒に美味しいご飯食べに行きたいな。あ、でも美味しいメロンパンは私のために買ってくるね」
「どうぞどうぞ」
応募した記事では夫の可愛さを前面に出して書いたけれど、こうやって格好いいこともさらりと言う。毎日が新鮮である。
正直落ち着く日がいつになるのかわからないので、その日の夕食後、家の冷凍庫に眠っていたアイスにさくらんぼを添えて、お祝い気分を味わいました。
これを食べている最中、私は岸田奈美さん講評の『役に立たなさそうな知識が、夫婦をつなぎ、理解を深めるものであるという展開がアツい』という言葉を思い出していました。
夫婦の会話を通して、普通に、役に立ちそうな知識も書かれているんですよね。
役に立ちそうなのに、この、絶妙な役に立たなさが素晴らしい。だけど役に立たなさそうな知識が、夫婦をつなぎ、理解を深めるものであるという展開がアツいです。
(引用元:【キナリ杯受賞発表】準々優勝・準優勝 )
役に立たなさそうな知識が、私と夫をつなぎ、理解を深めているというのは我が家の長所なのかもしれません。昨日の夕食だって、後から思えば役に立たない会話のオンパレードでした。でもそれも、遠い未来から振り返れば、お互いの理解を深める大事な要素であったことに気づくのだろうなと思うのでした。
自分自身に一番言いたかったこと
キナリ杯応募記事の文章中で私が自分自身に一番言いたかったことは、太字にもしていないこの部分でした。
おそらく世の中にはこういう一見違うようでいて、よく調べると同じ事象や考え方というものが他にもあるのだろう。それなのに、これまでそういう存在に気づかないまま、どれも『違うもの』として扱ってしまっていたかもしれない。よく考えもせずに。
もちろんその逆も存在するはず。同じだと思っていたことが、よく観察すると違う事象や考え方ということもあるだろう。どちらにしても忘れてはならないのは、一度結論づけたものをそのままにせず、定期的な観察を続けること。その上で、新たな発見があれば、更新をかけること。
(引用元:違うと思っていることは思い違いかもしれない話)
記事のタイトル『違うと思っていることは思い違いかもしれない話』の答えの部分です。定期的な観察を続けること、新たな発見があれば、更新をかけること。そうすることで、生きている上で必ず生まれるもやもやとした気持ちがほんの少しだけ晴れる気がします。「ケンタッキー州はフライドチキンのような形をしている」ことも、「ミズーリ州は『みず』が名前の中に入っているのに、水に接していない」ことも忘れないでおくつもりですが、決めつけをせずに、定期的な観察を続け更新していくことは、ずっと忘れないでおきたいです。キナリ杯に応募することで、この部分をしっかり文字に残せたのは、私にとって大きな収穫でした。
キナリ杯という宝島
キナリ杯は、宝島だと思います。宝石のように素晴らしい作品が、ザクザク出てきます。岸田奈美さんは、この宝島を生み出すというまるで神のような偉業を成し遂げられたと私は感じるのです。
キナリ杯について最近知られた方もいらっしゃると思いますので、宝島の歩き方ガイドをここに書き置きます。
▶︎受賞された作品を読む
受賞された作品から読まれたい方は、岸田奈美さんがまとめられた『キナリ杯2020マガジン』をフォローされると便利です。岸田奈美さんのハートフルで的確な講評も読むことが出来ます。
①以下の『キナリ杯2020(概要・受賞発表)』マガジンをクリック
②受賞発表の記事をクリック
③記事の中で紹介されている作品をクリック
▶︎自薦された作品を読む
①以下のツイートをクリック
②ツイートの返信部分をスクロールし、気になった作品のリンクをクリックして読む
こちらはキナリ杯後夜祭のイベントの一つです。作品を書かれたご本人達が、キナリ杯に応募した作品のリンクを紹介しているのですが、コメントにはキナリ杯に参加された思いや岸田奈美さんへの感謝の言葉がたくさん詰まっていて、心が温まります。
▶︎他薦された作品を読む
①Twitterにて『#キナリ杯後夜祭』を検索
②他薦ツイートで気になった作品をクリックして読む
キナリ杯で優勝されたヨッピーさんが賞金を辞退されたことをきっかけに設けられたキナリ杯後夜祭のもうひとつのイベントです。(こちらのイベントの締め切りは2020年6月14日(日)23:59までです)#キナリ杯後夜祭 とハッシュタグをつけた上で、お気に入りの作品を愛をこめて紹介するというもの。他薦した側の視点なども見れて面白いです。
▶︎自分にとってのお宝作品を探す
①noteにて『#キナリ杯』を検索
②気になる作品をクリックして読む
4240件もの応募作があるので、私もまだ拝読していない作品がたくさんあります。その分ゆっくり宝島を散策できると思うと楽しみで仕方がありません。noteにて#キナリ杯後夜祭 と検索するのもオススメです。キナリ杯に応募された作品について、様々な方が考察された記事を見つけることができます。
おわりに
キナリ杯という宝島の歩き方を4つ書きましたが、散策される際には、ご自身のランタンをお忘れなくお持ちください。ランタンとは、岸田奈美さんのこちらの記事に出てくる比喩のことで、『ランタン=文章』を意味します。
文章は、灯台にはなれない。迷っている船の道標にはなれないし、暗い海の底を照らすことはできないし、街の人から感謝されることもない。
せいぜい、ランタンです。
自分がこれから向かう暗闇で、寂しさをやわらげるための。
ぼうっと見つめて、過去を思い出して癒やされるための。
足元を照らして、いま自分がどこにいるのかを確かめるための。
(引用元:キナリ杯をはじめようと思った、ほんとうのこと|岸田奈美さん)
ランタンは、時に消えかけてしまうこともあります。ですが、そういう時にこそ、消えかけたランタンを抱えて、宝島を歩くと良いのではと私は思います。誰かが書き置いた作品を読んでいくうちに、散策している際に出会う人々と交流するうちに、いつの間にかランタンを明るくする何かを見つけられることがあるかもしれません。
ここまでお読みいただきありがとうございました。 いただいた御恩は忘れません。